徳川慶喜
永らくお付き合い頂いた姦人の歴史行も、この徳川慶喜にて、めでたく完結である。晴れがましくも掉尾を飾るのは、筆者であるこのわたしが「姦人足りえなかった男」としてエッセイの到達点に置いた人物である。
ここまではたとえ現世にて悪人と誹られようと、または後世に悪人の汚名を着せられ滅びて行こうとも、ものともすることもなく、おのれの金字塔を打ち立てた敢然たる男たちをわたしは取り上げてきたつもりであるが、この慶喜は奇怪にして、それを最も恐れた男であると言えよう。
本エッセイはこの慶喜がいかにしたら『姦人』足りえたのか、そこを着地点として描くことを目的としてきた。第一話の真田昌幸から入り、後世にまでその『悪名』が伝わっている人々を採り上げたが、彼らに共通するものを徳川慶喜は持っていない、とわたしは見ていた。それはなりふりを構わない『悪漢』の資質であり、過去でも未来でもない、『現在』を勝ち進む突破力であったと言えよう。
その上で考えると、徳川慶喜が恐れたのはひたすら『未来』であった。台頭する勤王列藩の志士たちが暗躍するなかで、彼は常に『歴史の敗者』たる貧乏くじが自分に回ってくることだけを気にし、『徳川慶喜』の名が悪人の名として遺らぬよう、力を尽くした。極言すればそれが、徳川慶喜の生涯だったと言っても過言ではない。
この徹底ぶりは、外で逆賊の悪名をさえ被らなければ、一族の中では爪はじきにされてもいい、とでも言いたげな潔さにも表れている。明治以後、一族の集まりには、前宗主であるはずの慶喜には、決して上座が与えられなかったと言う。だが慶喜は、黙って順っていたそうな。ところで彼の盲目的なまでの恭順は徳川家に向けてのものではない。明治の新時代を出現させた天皇家に対してのものであった。
その根底には無論、水戸学がある。倒幕志士たちの主要論拠ともなった勤王論の源流は、『国学』の水戸徳川家である。始祖家康以来の徳川家による封建体制が、何によって成り立っているかを、解き明かした藩祖、徳川光圀以来の『国学』は、江戸幕府のそのものの絶対性に、疑問を投げかけていた。将軍継承権を持っているのにもかかわらず水戸家では、江戸幕府の将軍とは朝廷から任じられた権限代位者であり、将軍家の上に天皇家をおいて序列となしていたのだ。
正論と言えば正論なのだが、徳川幕府と言うものがそうした権力基盤の根拠を、いわば黙殺することによって成立していた政権であった。それを、わざわざ当事者である徳川家縁故の人間が自ら疑義を投げかける、と言う風に成立した慶喜の思想は、王侯が王権を根本否定する、と言う抜きがたい自己矛盾を孕んでいはしないだろうか。
その思想を与えたはずの実父、徳川斉昭は慶喜に徳川政権の無実化を、望んではいなかったであろう。と言うより、そもそもこの徳川斉昭こそが、御三家、水戸家当主の立場から徳川宗家を取り仕切る立場にならんとしていた人物であり、倒幕を顛末とする『幕末』と言う局面はこの斉昭の野望から始まった、と言って過言ではない。
つまり風雲児になろうとしたのはむしろ、慶喜の父、斉昭だったのである。
この斉昭こそが『幕末の賢公』のいわば走りなのだ。
そもそも幕末とは、天保以来続く外国船の出現に対応しきれない幕政への不満に乗じて、これまでは絶対的に従うしかなかった将軍家に対し、諸侯が有力な意見を持ち合わせることによってこれを凌駕する、いわば武力ではなく政治力による、戦国以来の下剋上であったと言っていい。
彼らは意見を持つために、勉強をした。わけても斉昭は外国語の新聞までも取り寄せ、当時のロシア王朝の内情から、アヘン戦争のあらましまでを把握していたと言われる。斉昭はたぐいまれな『有識者』として、意見定まらぬ中央政界に、颯爽と乗り込んだのだ。
斉昭の主張は当初は開国であり、幕政が主導し外国に負けない国力を身に着けることであった。これに実際に国費を投じて蒸気船を建造するなど実践者たる藩主として、すでに取り上げた薩摩の島津斉彬や、越前の松平春嶽が続き、一派をなした。これが『幕末』における最初の局面であった。
そしてむろん風雲児は漏れなく、腹黒い悪漢の汚名を着る。改革派急先鋒として開国論をたてに、薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽とともに、中央政界を牛耳ろうとした斉昭は、既存勢力から終生にわたり嫌われることになる。
なんと敵に回したのは、よりによって大奥であった。この因縁は果ては安政の大獄から、公武合体にまでもつながる。後代に南紀派と言われる一大抵抗勢力になる。徳川慶喜は、大いなる政敵を父から受け継ぎながら、将軍職をやらねばならないと言う重責を負わされて世に登場したのである。
今さら確認するまでもなく本論は『悪人エッセイ』だ。
なので結論から言うが慶喜本人は、斉昭のような悪人ではなかった。だが皮肉にも父、徳川斉昭が用意したのは『極悪人』こそがものに出来る野望の茨道であったのだ。
概して慶喜本人は、父・斉昭がつけたこの運命と『教育』に忠実であったのであり、忠実であった結果、父が望むのとは別の『幕政の奉還』と言う道を択ばざるを得なかったと言える。あまつさえ、水戸学が説く勤皇論上の『朝敵』になることを、あれだけ畏れるようにおい育ったのである。
しかし史上、筆者が語ってきた『姦人』であったなら、必ずや勤皇と言う言葉の『裏』を読んだであろう。誤解を恐れずに言えば、幕末、勤皇思想それ自体がただの空論であり、『方便』なのである。例えば幕末に暗躍した『維新志士』たちは、ある程度・時点までは、この水戸学由来の勤皇思想に操られて行動していた純粋な思想犯たちではあった。
だが当然、その首脳部に位置する人物たちはその裏側の仕組みに早くから勘づいていたはずだ。誰とは言わないが、薩長藩指導者、そして宮中公家出身の行動家たちである。勤皇とはあくまで、旧勢力派一掃のための方便に過ぎない。その用が済めば、ただの空論に戻さねばならない。彼らはその行動原理に従ってきちんと『謀略』を巡らせている。
例えば新時代の始まりに孝明帝から明治帝へなぜこれほどタイミングよく、帝位の交代がなされたか、と言うことを考えてみてもそれは分かる。孝明帝毒殺の逸話は現代、前後の記録から、現実味を帯びてきている。明治政府を作った人々が正真正銘の勤皇の志士であったと言うならば、さしずめ慶喜のように振舞うのが正当だろう。
悪人の底力とは、ままならぬ現実を味方に引き寄せる実行力である。
織田信長は天下を取るために旧室町幕府の権力体制を、そして朝廷のしきたりを方便として都合よく濫用したし、その衣鉢を継いだ徳川家康も、これら旧勢力を都合よく無力化した上で、いいようにあしらい、利用してきた。世の『姦人』はつまるところ権威に肚から順う心がないからこそ、自ら権威たりえるのである。
慶喜が父、斉昭からそれを汲んでいたとしたなら、『幕末』は今伝わる様相を一変したろう。だが様々な要因を綾糸としてより集めてそれを決してさせないのが、『歴史』と言うものの恐ろしさなのだ。
くしくも勝海舟は、『時流』と言うことをよく語った。大久保利通も、西郷隆盛も、よくよく考えてみれば大人物ではないはずだが、時流に乗ってやってくるものの勢いと言うものは、常識的な物の見方では到底図れない、と言うことである。
慶喜がその気ならば、『勤皇革命軍』として薩長をさしおいて反幕勢力筆頭にのし上がることも出来たであろうし、賢公たちを凌駕して、江戸幕府から軍事・行政・産業において西欧近代化した新体制を作り上げることも出来たであろう。
実際、大坂に二院制の改造幕府を設立する案(議題草案)もあったし、勝海舟はじめ、幕臣たちもさまざまに提言した。抜き差しならぬ時には、フランス政府から戦費を借款する話まで出た。だが慶喜は、ついに動かなかった。それは時流をして彼を、そのような人物に仕立て上げなかったからである。
しかしながら慶喜が、乱世の姦雄であった場合はどうなったか。まず明治日本の近代化は、ならなかったかも知れない。恐らく戊辰戦争は、国土を割った戦いになっただろう。戦費不足で疲弊した日本人たちは外債に頼らざるを得なくなり、その借金はどこかで踏み倒せない限りは、弁済することは出来なかったかもしれない。明治政府旧幕いずれが勝ったにせよ、物別れとなったにせよ、そのために主権国家としての成立は難しかったかも知れない。
少なくとも絶え間ない戦火におびやかされつつ、慶喜は死んだだろう。彼がそれほどの野望の持ち主であったなら、華々しい最期は本望とは言えただろう。だがそれは結局、公人として何に捧げた、生涯であったのかと言えば、空しくなる。
対し、現実の慶喜は日露戦争の凱歌まで見届けて、七十六年の天寿を全うしている。爵位を受けて名誉を回復し、写真に油絵など多彩な趣味に親しみ、文明開化の明治日本をしみじみと愉しんだ。
そう言えばわたしはくしくも、悪漢の素質とは『現在』を勝ち進む突破力だと、冒頭に書いた。その意味では慶喜は自らに突きつけられた現実の運命を『勝って』突破している。
徳川慶喜は敵に、はたまた味方に、さんざん罵詈雑言を浴びせられながら、すすんで人に非難される『悪』を敢然と押し通した。と、すれば彼もまた『姦人』である。今や英雄となり、過去の悪行も霞んだこれまでの『姦人』たちとは異なり、徳川慶喜こそいまだに歴史に親しむわたしたちの目を欺き続ける『姦人』なのではないか。
さて、このようなところで、悪人人物列伝完結でございました。
本作、誤解を恐れずに言いますと徳川慶喜を叱咤する書き始めたこのエッセイでありましたが、やはりここまで考えてみると、この人もまた、後世の非難を恐れず、自分を貫いた人で。
思えばこの作で取り扱ってきた悪人とは、みな自分の意思に殉じる覚悟をしてきた人たちでした。今もちろん、こうした人たちの生き方を重ね合わせていくことは難しいことではありますし、真似は出来ないとは思います。
しかし何かに挫けたり怖じ気づいたとき、歴史上の人物ですら、偉人等と言うほど遠い言葉ではなく、人間として、間違いや偏りを持ちながらも、生き抜いていったのだなあと少しでも身近に感じて心強く思えて下されば幸いだと思います。
人から減点されることを恐れる社会になりました。でもたぶん、時代を突破するのは悪人でありましょう。そのときわたしたちは悪人たれずとも、悪人のなんたるかを知っているべきだと思います。
長らくのご愛読ありがとうございました(..)