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勝海舟

 幕末も押し詰まってきたが、この人物の登場である。紛れもなく幕末を生きた中心人物のひとりであり、屍累々のその第一線を一歩も退くことなく駆け抜けた『天運』の強さは、他に並ぶものはいない。


 幕末の歴史そのものと言ってもいい彼には、『氷川清話』はじめ、ほぼ肉声とも言うべき記録が残っており(これは勝本人の口調を聞いたまま再現した、音声記録のない時代の貴重な記録であろう)その人柄から考え方まで、今日の私たちが触れようと思えば最も身近に触れることの出来る稀有の人物だろう。


 これまでの項でも見てきた通り、封建制度による階級社会が極まり、戦国風の武断気風が退けられた時代においても、のし上がる人間の時代は続いていた。戦国がその代表のように言われるが、(恐らく現代にいたるまで)世はいぜん下剋上の時代である。

 もちろん文治政治の世の中において求められるのは、民政から経済(そもそも経済と言う言葉じたい、江戸生まれだが)の知識と実行力であったが、それでも彼らは階級社会の頂点よりはむしろ、その草の根から現れた。


 例えば本稿で取り上げた『田沼意次』の例を挙げるまでもなく、思えば江戸時代に登場した改革者たちは皆、そうであり、たった一代、綺羅星のように輝いては身分制度を超越した栄華を誇り、その末路には急転直下の没落が待っているのが常であった。


 この勝海舟の家柄も、元は武士ではない。起こりはその曾祖父であり、盲人であった。越後小千谷(えちごおぢや)から出たと言うその人は、按摩(あんま)から高利貸しに転じ、巨万の富を蓄え、御家人の株を買い、幕臣となった。その末裔が、海舟である。

 すなわち勝家は、いわば買われた武家であり、海舟自身の調べによれば駿河は坂田郡の出身、今川氏に仕えた家であったと言う。三河以来の名家と言うのは名ばかりで、禄は百石前後、そのため海舟の少年時代はどん底の貧乏生活であった。


 学問の師と呼べるものは満足になく、独学で学んだ。青春時代は剣術指南を当時、江戸で最強に数えられていたと言う島田虎之助のもとに住み込み、修行に明け暮れたのみだと言う。それでも若干19歳で、今の東京板橋にほど近い徳丸ケ原で、幕府高官の前で西洋式の砲術演習を行い、一躍頭角を現したと言うのだから、常人離れしている。



 海舟の多感な十代の頃は外国船がしきりに沿岸で事件を起こし、海防論が一気に高まった頃であった。いわば黒船前夜、第一波と言うところで、海防に向けて幕府軍西洋化の黎明期だった。海舟はその幕末第一期生であり、終始一貫した幕府防衛の専門家であり続けた。


 それも、専門学者ではない。幕府の西洋化の現場第一線に立ち、有為の志士たちと触れ合い、豊富な実体験を基にどんな攘夷論者よりも先に、『開国』と言う結論を理屈抜きに肌で悟ることが出来た、唯一の人物であると言っても過言ではない。

 海防論と言う最初のトピックスから、倒幕に至るまで『幕末』のすべてを見てきたと言うに足る唯一の人物と言える。


 無論、彼には優れた先達がいたし、抜きんでた同期もいれば、卓越の後進も持った。前出、佐久間象山や吉田松陰と言った人物は、前者にあたると言えるし、4歳年下で剣術は同じ島田虎之助門下だった小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)は、同時代の第一線を生きた生え抜きの同期とも言える。卓越の後進と言えば、坂本龍馬を筆頭に、海軍伝習所で海舟の薫陶を受けた幕末志士たちの名は枚挙に暇がない。


 だがよく考えてみると今、名前が挙がった人物はことごとく皆、生き残っていないのである。彼らに待っていたのは、志半ばでの非業の最期だった。幕末を一大絵巻とするならば、彼らはそれぞれの巻の一部の話題における役割を担って消え去っていったに過ぎない。彼らと海舟との違いは、いったいどこにあるのか。


 それは、海舟が徹頭徹尾、リアリストであったからに他ならない。江戸期を通じて、封建的身分制度の枠を超えてのし上がった人物たちの中で、彼のようなものの考え方を持っていた人間は私の見るところ他にはいない。むしろ逆に、海舟以外の人間に欠けていたのは、リアリストに徹するしたたかさであると言いかえた方が妥当であろうか。


 リアリストの最大の強みとは、『諦める』ことである。理想の高みを目指し、積み重ねてきた努力と手間を、惜しげもなく捨て去ることの出来る潔さ、それが海舟最大の武器である。理想の強い人物は、初志貫徹の意志を曲げないことが美徳だが、ときにその理想で現実の姿を捻じ曲げてしまおうとする悪癖が出る。結果、積み上げてきた階段を踏み外し、思わぬ転落をしてしまうのである。


 前出、佐久間象山にもそのふしがなくもない。海舟自身も象山は博識であったとしつつも、理屈で人を打ち負かすのが好きで「洋学者がくれば漢学で、漢学者がくれば洋学で」うちのめすと言った具合で困ったと述懐している。

 なるほど議論それ自体には勝ち負けと言うものがあるが、その敗者とされた側がその議題について納得するかどうかと言うのは、別の話である。理屈の勝ち負けにこだわるあまり人情が見えなかった象山の末路については、周知の通りだ。


 さて海舟の話に戻るが想えばこの人ほど、その生涯において抗うことの出来ない時の勢いに乗って世の中に登場した人間と多く相対した人間はいない。その都度、彼は物事の是非や博識で人を打ち負かすようなことはしなかった。

 暗殺にきてそのまま弟子になってしまった坂本龍馬の話は有名だが、人をありのままに見て、受け入れることが出来ると言うのは、常に変化する『現実』に対して恐れも構えてもいない、と言う姿勢なのである。


 人は誰かに会うとき、知らず知らずのうちに値踏みをする。相手を値踏みし、自分を値踏みするのである。その相場の見積もりに欲が深かったり、臆病だったりすると、思わぬ災難に巻き込まれることになりかねない。海舟はそれを知っていたからこそ、暗殺の憂き目に遭わなかったのだ。


「時勢が作り上げる」と言う海舟は言う。大人物も、歴史に残る出来事も、自ら現れるのではなく、ゆっくりと来るべき時に流されて世に出て行く。無理は禁物である。リアリストである海舟は、学問からそれを学んだわけではない。肌で感じて、心得たのである。


 しかしリアリストは、往々にして失望の憂き目を見る。海舟生涯の山場であった江戸無血開城は明治元年四月十一日に行われたのだが、当時、幕臣からは悪評の極みであったそうな。

「妻子すらおれに不満だったよ」とうそぶく海舟だが、この件は福沢諭吉によって『痩せ我慢の説』と言う批判論まで書かれ、明治まで語り継がれることとなる。


「フランスに戦費を借りてまで、戦争を継続する」と言う小栗上野介をはじめとする当時の強硬派たちの論に乗って、戊辰戦争が泥沼化したら我が国がどのようになったのか、今日では考えてみるまでもないが、上野寛永寺に籠った徳川慶喜の絶対恭順も含め、「それでも徳川武士か」と言うそしりは、現在でもフィクションなどでは遠慮なく描かれている。


行蔵(こうぞう)は我に存する」言いたいこともあるんだが、黙っとくよ、勝手にしな、と言う福沢諭吉への海舟の答弁の態度は自分をも突き放しているようでいて、リアリストとしての皮肉が効いていると言える。なるほど歴史に残る大英断は果たしたが、徳川家の誇りをかけて決戦を挑まなかった海舟は、つまらない男、であり本人も半ば自覚しながら、それを全うしたのかも知れない。


 人の生涯を面白い、つまらないと言うのは、歴史好きにとって最大の楽しみではあるのだが、それは他人の人生だから言えることである。本稿は姦人、すなわち悪人を描くエッセイだがこの姦人の罪や、果たしていずれにあらん。


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