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島津斉彬

 さて永のご無沙汰を置きましての再開は、幕末四賢公(ばくまつよんけんこう)の一人と称されるこの男である。この人物から、薩摩藩の幕末は始まったと考えてもいいかも知れない。時世が生んだ、諸藩でも随一の開明家であった。


 嘉永6年(1853年)の『黒船来航』からわずか二年で国元薩摩に造船所を作り、大型砲艦12隻、蒸気船3隻の建造に取りかかり、黒船を再現してしまった。このとき造られたうち昇平丸は、幕府に献上されてもいるのである。長さ11間(約20メートル)15馬力もの堂々たる蒸気船であった。この偉業が快挙であったのは何よりも、江戸幕府以来禁じられていた大型船の建造を斉彬が解かせたことだ。


 かの鎖国令(さこくれい)のためにわが国では、船に甲板を設けてはならない、職布(しょくふ)で作った大型の()を張ってはならない、と言う厳格な決まりがあったのである。文明の差を武力で見せつけた黒船のショックをものともせずにいち早く産業革命の本質を見抜き、「今なら欧米列強に追いつける」と言う意見を、幕府に対して通した斉彬の考え方は、当時、最先鋭の国家運営思想だった。


 十八世紀に入り、外国船の往来が頻繁になり、その被害を受けるのは江戸よりも常に海との境を持つ地方諸藩であった。幕府はそれに一貫した対応を打ち出せず、事件が起こるごとに主張を変えたため、地方の諸藩は自力の防衛策を考えるしかなかった。


 幕末の原点はまさにここにあり、島津斉彬はそのトップランナー的立場にあったと言える。斉彬が薩摩藩で手がけた事業は他にも、ガラス製造、鉄工、電信、電話と多岐に渡る。又は開明政策に積極的でない幕府勢力へも直接政治運動を行った。僻地薩摩から凄まじいバイタリティだ。かの有名な養女天璋院篤姫てんしょういんあつひめを送り込み、幕政への果敢な関与を強めたのはその集大成である。

 こうしてみると斉彬こそ賢候として並び称される、徳川斉昭(とくがわなりあき)(水戸)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)(越前)、山内容堂(やまうちようどう)(土佐)と言われる人たちのいずれの事業にも先鞭をつけているのだ。


 斉彬の死後、殖産興業による防衛力の強化と開国は、水戸の斉昭が慶喜に、因循な中央権力の解体をはじめとする幕政の改革は松平春嶽や山内容堂が、それぞれ引き継いだと言ってもいいだろう。

 その画期的な手腕をおおいに発揮した斉彬は、意外や織田信長のように苛烈な人物かと思いきや、開明時代のトップランナーに相応しい理知的で穏やかな人柄であったと言う。その人物像は親友であり、蒸気船開発を競った伊予宇和島藩(いようわじまはん)伊達宗城(だてむねき)の回想に詳しい。


「自分はこの七十の齢まで貴賤内外を問わず、ずいぶんの人物に接してきた。しかしいまだ島津斉彬のように、風采つねに春のごとく、愛慕の念禁じがたき人を見たことがない」


 実に賢君を絵に描いたような人柄である。貴族生まれ特有の屈託のなさと、純粋な好奇心から来る知性が人あたりの広やかさを生む、まさに誰もが認める理想的なエリートの姿がそこにあったと言える。同じような証言は、長年幕政改革に尽くした松平春嶽も口にしており、諸侯はじめ幕府の上層部関係者の一致した斉彬観であったのだろう。同じように大奥に干渉した水戸斉昭が「女官好き」の醜聞を立てられ、奥向きの女性から、ある意味、性獣(けだもの)のような扱いを受けたことと比べると、やはり人品(じんぴん)の違いと言わざるを得ない。


 しかしそんな完全無欠の英君にも、唯一にして最大の欠点があった。『身内』である。斉彬の先代、実父の斉興(なりおき)は蒸気船や鉄工場に巨大な資本を投下する息子を、決して快く思ってはいなかった。先代斉興こそは、家老・調所広郷(ずしょひろさと)とともに薩摩藩の一大財政改革を推し進めた名君で、自分一代でようやく薩摩藩が持ち直したと言う意識がある。


(わしがようやく持ち直した薩摩の銭を、西洋かぶれに使いおるか)


 さらには斉興は厳格な密教徒であり、島津家に独特の歴史観を持っていたとされる。それは島津家の祖、忠久が源頼朝(みなもとのよりとも)落胤(おとしだね)であり、武家源氏の発祥である清和天皇から三種の神器に継ぐ秘法『虎巻秘法』(いわゆる虎ノ巻)を密かに伝えてきた家柄だと言うことだ。斉興はそのことについて、直看経作法伝書』と言う書物も記しており、自分が清和源氏の正統であると信じていたようだ。そのため然るべき地位にこだわり、斉彬が四十歳を過ぎても容易に家督を譲らなかったとされる。


 そして悪いことに、その斉興の寵愛、おゆら(由良、遊羅とも)が食わせ者であった。元は江戸の三田の四国町に住む大工の娘だと言うこの女性は斉興の寵愛を勝ち取り、自分の子を島津の世継ぎにしようと画策し、閨閥(けいばつ)を牛耳った。幕末島津家を扱うとき必ず登場する家督相続争い、おゆら騒動の元凶がこの女性であった。地元薩摩の郷士たちを多数自害に追い込んだこの事件で、薩摩藩は旧守派、開明派の真っ二つに分裂し、血の対立構造が続いたのである。開明派の中には後の西郷隆盛(さいごうたかもり)が入っており、書簡で「奸女(かんじょ)」とまでおゆらを罵倒した。おゆらは当時、世継ぎの候補になる人間を次々に毒殺してきたと言う悪評が立てられていた。斉彬も注意を払っていたようだが、薩摩の城南天保山で軍事演習の総指揮をしている折りだ。


 あまりの暑さに持参した湯茶で足りず、斉彬は近在の農家の井戸水を汲ませて飲んだ。その翌日から腹痛と激烈な下痢に悩まされ、たったの一週間で死んでしまったのである。コレラ感染説が定説だったが、当時コレラの流行は薩摩では終息していた。今では衰弱の仕方から暗殺説を取る見方が強い。斉彬死後は、老いても野望たくましい斉興が実権を取り戻し、斉彬時代の開明事業のほとんどは、白紙に戻されてしまった。


 その斉興死後、明治維新まで幕末の薩摩を率いたのは、おゆらの子、久光(ひさみつ)である。幕末のドラマには必ずと言っていいほど登場する久光であるが、斉彬に比べるとその存在価値は、紙のように軽かった。


 西郷隆盛は前主を暗殺して後釜に治まった久光を露骨に憎み、あるときは完全に無視した。さらにしたたかなのは大久保利通(おおくぼとしみち)であり、代替わりで何も知らない久光を「徳川に代わって将軍の座に就ける」とおだてて、討幕運動に国政を傾けさせた。驚くことに久光は自ら藩主の座を棄てる自滅の道を採ったことを、明治維新後の廃藩置県(はいはんちけん)に至るまで自覚していなかったのである。


 こうしてみると今回の姦人(かんじん)は、斉彬本人ではなく斉彬の周りにいた無数の人物の悪辣(あくらつ)さがそれにあたるような気がするが、まっさらな強い光の周りには、色濃い影が落ちるものである。もし斉彬がいなければ、薩摩藩で血が流されることは少なかったかも知れないが、ひいては西郷・大久保による地元郷士たちの草の根運動も起こらなかったと言うことであり、維新回天の事業も起こらなかった。斉彬こそは、時代が革命の血を見るべくして落とした無邪気な天才、無自覚の姦人であったと考えるべきか。





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