第二話
ようやく辿りついた大きな館の玄関に立ち、私は盛大にノッカーを打ち鳴らした。
どうみても普通の領主館に見える。
その頃には仔犬も観念したのか、うぅっ、と唸っているだけだった。
私が祈るような気持ちで玄関扉を見つめていると、しばらくしてその重苦しい扉がゆっくりと開いた。
そして一人の年老いた男性が現れたのだけど、私を見て驚いている。
えっと、何か言って欲しい。
男性は田舎の執事のようで、男性の背後に見える扉の内側も鄙びた領主館にしか見えない。
私の前に立つ男性は銀髪で、とても背が高く。
もしかして、という思いが止まらない。
「お……王妃様、で、いらっしゃいますか?」
私は異世界に飛ばされたわけでは、なかったらしい。
あまりの安堵に私はヘナヘナとその場にしゃがみ込んでしまった。
息子も、陛下も、ここにいるんだわ。
館の主人が慌てて玄関まで現れ、思いっきり戸惑いながら歓迎してくれたんだけど。
私はもう疲れ果てていて、ただただ休みたかった。
詳しいことは休んだ後でという私の願いを受け、主人は部屋を用意してくれた。
まあ、私が王妃と知っているんだから、嫌だとしても私の意見を無視することはできないのだろうけど。
私は準備してくれた風呂に入り、仔犬も残り湯で洗ってやり、寝台に横になった。
風呂の後、ぐびぐびと顔を盥につっこんで仔犬はまだ水を飲み続けている。
「仔犬、あなた、何なの?」
異世界へ飛ばされたわけではないとしたら、私はなぜこんなところへ移動したのだろう。
この仔犬は、なぜ日本語を喋っているんだろう。
落ち着くと、いろんな疑問が湧きあがっていた。
「私が行き倒れた時、とっさに助けが欲しいって思ったら、あなたが反応したみたいね」
「え? 仔犬が私をここに呼び付けたの!?」
「失礼ね。呼び付けてなんかないわ。あなたが勝手に来たのよ! ついでに言うと、私が喋ってるのは日本語じゃないわ。あなたの頭がそう判断しているだけ。私は言葉を誰にでも通じさせることができるの」
自慢げな態度が、むかつく。
私を呼び付けておいて、何、それ。
そう思いながら仔犬を睨みつけていると、顔を振って水気を飛ばし、仔犬はツンとした顔を私の方に向けた。
「大体、あなたは魂が不安定すぎる。でも、魂と身体と分離した直後に私がここに引っ張ったから、仕方ないか」
「魂が、不安定?」
身体と分離した直後? 私を引っ張った?
日本から、この世界にやってくる、あの時。
私は……魂と身体が離れたってこと?
いや、まさか……。
車にぶつかってふっとんだから……私、死んでるの?
ここ、異世界だと思ったけど、実は霊界だったりする?
いや、それ、ちょっとイメージじゃないわ。
馬糞臭い霊界って、どうなの。
「死んだら引っ張れないじゃない。あなたは生きてるわ。死ぬ直前の人よ」
死ぬ直前の人……。それって、何?
私の頭には疑問符が飛び交っているけど、この仔犬がこの世界に私を連れてきた張本人らしいことはわかった。
仔犬が言うには、私が死ぬ直前に仔犬が分離した私の魂と身体をこちらに引き寄せたらしい。
仔犬が私の魂と身体をくっつけたので、仔犬に影響されやすいんじゃないかって。
「じゃ、今後も仔犬が私を呼び寄せるってこと?」
「さあね。はあっ、どうしてもっと言う事をきく素直な女性じゃないのよ。かわいくないわ」
「ほっといてちょうだい」
勝手に引き寄せておいて、素直な女性じゃないですって? かわいくないわ、ですって?
この仔犬ってば、我儘者!
結局、私は、数秒で死ぬ予定だった人生なのに何年も生きているわけだから、ラッキーなんだろう。
「私は、いつまで生きられるの?」
死ぬ直前の人で、魂が不安定なのなら。
死ぬ予定だったのだから、何時死んでも文句は言えないわけだけど。
やっぱり、今、死にたくない。
今は、今はまだ。生きていたい。
「そんなの知らないわ。寿命がくればいつか死ぬんじゃないの?」
「それは、普通に、生きていけるってこと?」
「人だし。そうでしょ」
「そう」
私はこの世界で人生を全うできるらしい。
死ぬはずだった人生を生きられるなんて、この仔犬、神様なの?
神……そういえば、仔犬って神様がいたような……。
私はぼんやりそんなことを思いながら、仔犬とお喋りを続け、この領地は掘れば湯が湧くという情報に私は食いついた。
温泉。なんて素敵な響き……。
わくわく温泉郷の夢を描いて、私は眠りに落ちた。
翌朝。
爽やかに目覚めた私は、いつもよりも随分質素な寝床に何があったのかを思い出した。
夕食もとらずに眠ってしまったらしい。
「王妃様、お目覚めでいらっしゃいますか? 部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
「えぇ。構わないわ」
そう答え、寝台を降りたところで、私はふと鏡台を見た。
「ギャアァァァァーーーーーーッ」
「王妃様っ!」
「王妃様、何事でございますか!」
「王妃様っ」
私が鏡台に向って指をさしたまま硬直していると、室内に何人もの人が押し掛けてきた。
「王妃様、どうなさいました?」
「……何でも、ないわ……」
「お、王妃様へ仔犬様よりの伝言を預かっております」
この館の主人の妻オーエンス夫人が、気丈にも私に声をかけてきた。
他の人々は私同様に硬直している。
この夫人、なかなかに、しっかりした女性と見える。
「伝言? 何かしら?」
仔犬様って何!
そういえば、仔犬の姿が見えない。
私は引きつりながらも笑みを浮かべる努力をして夫人に向き直った。
「王妃様には世話になったので、お礼に王妃様の願いを一つ叶えました。二週間ほどしか持ちませんが、楽しんでください。とのことです」
あ、あは、あは、は、は……。
あの仔犬は私の黒色を金色に変えてしまったらしい。
だから鏡に映っていたのは金髪、金目、金眉、金睫毛な私の姿で。
金色はアジアンな肌色に溶け込み馴染んでしまい、顔のぼんやり感は半端ではなかった。
あんのバカ仔犬がっ! 私の願いを叶えたですって!?
私が望んでいたのは、金髪むっちりないすばでぃな美女であって、毛だけ金髪になりたかったわけじゃないのよ!
普通の黄色な日本人が金毛になったら、のっぺり塗り壁顔になるだけで、不気味以外の何物でもないじゃないっ!
どうするのよ、これっ。
どうしてくれるのよ、これっ。
気色悪すぎるわっ。
「……そう……。その、仔犬は、今、どこに?」
大声で怒鳴り散らしたいところだけど、これでも私は王妃。ここで、みっともない振る舞いに走るわけにはいかない。
私は何とか口元にひきつった笑みを保持しつつ、夫人に問いかけた。
「今朝早く、お発ちになりました。この領内をしばらく散策してから南に向かうとおっしゃって」
「……そ、そう。朝から奇声をあげて、驚かせてしまったわね。ごめんなさい」
持っていき場のないこの怒りを、どうすればいいの。
それでも、何とかとりつくろい、私は夫人や使用人達に笑顔を向けた。
笑顔になっていないかもしれないけれども。
「いえ。……あの、食事の支度が整っておりますので、今からこちらに運ばせますが、よろしいでしょうか?」
「ええ。そうしてちょうだい」
オーエンス夫人、何にも突っ込まずに冷静な対応、本当にありがとう。
私は心から感謝した。