■11話■王妃の記憶(side陛下)
数人の騎士とともに王都のどこにでもありそうな、とある家を後にした。
ここしばらくというものは気が塞ぎ、たえず不愉快な感情を抱いていたというのに、今は不思議と晴れやかな気分だった。
王妃に会ったというだけでこれほど変わるとは。
一昨日、王妃を見かけた。その時以上の何かが得られるとは思っていなかった。ただ一昨日得た情報が正しいことを確かめるためだけに、ここへ来たのだったが。
「このままにして、おいてよろしいのですか?」
過去へと思いを巡らせようとするのを中断させたのは、同行していた騎士ラシュエルの声だった。
彼は不満そうな様子だ。
今回の目的は王妃の滞在場所を見て、王妃がそこにいることを確認するだけと知っている。
であるにもかかわらず、王妃を連れ帰らず放置するなど、いつもの王らしくないとでも考えているのだろう。
先程の家で、王妃と対した時の態度に違和感を覚えていた彼は、王の様子がいつもと違うことを探ろうとしている。
王宮内ではこうした者達が徐々に増えており、向けられる視線が煩わしい。疑っている中にも案じているらしき気配を感じはするが、今は煩わしいものでしかない。
何も考えずにいろとは思わないが、いっそ口に出せばよかろう。だが、彼等も違和感の原因をはっきりとは掴めていないために、どこがどうおかしいのか口にする事は出来ないのだ。それならば、いっそ目をつぶっておればよい。小賢しい視線を送って来るくらいならば。
「かまわぬ。あれは好きにさせる」
「はっ」
言い捨てると、しぶしぶ引き下がった。納得してはいない。
国王付きの騎士がこうした態度を表に出すほど緩んでいるのか。
晴れやかだった気分がくすんでいく。
全てが煩わしい。
その煩わしさの原因は王妃であるというのに。晴れやかな気分になったのも、また、王妃が原因だとは、皮肉なものである。
身辺がこうした状態になったのは、王妃が行方不明になったと報告を受けた時からだった。
あの報告を受けた時、宰相は驚いていた。おそらくは王妃の報告に国王が大きな反応を示さなかったために。あの場にいた側近達も官吏達も宰相と同じような反応を示していた。そして、誰もが疑念を抱いたのだ。王がおかしいのではないか、と。
国の上位者である彼等がそうした様子であるのだから、下の者が真似るのは当然であり。現状は、その疑念を解かねば解消されない。
いずれ解消させるが、それは今ではなく、こうした状況が続くのかと思うとうんざりする。
あの時。
王妃が行方不明だと知らせを聞いた時、正直、何の感情も動く事はなかった。ただ、王妃の不在は国として大事件ではある。そう判断したのだが。周囲の驚きを目にしては、これ以上、己の異変を隠すことはできないのだと知らされることとなった。
己の中の異変。
それに気付いたのは王妃の知らせを受けるよりも前のことだった。
王妃の名を口にしようとして、名が思い出せなかった。覚書にそう記している。だが、実際の記憶はない。
気付けば王妃に関する記憶が消えていた。王妃がいると知っているにも関わらず、どのような顔なのか、声なのか、名なのか。そして、わからないと思ったことすらも、消えていくのだ。何もなかったかのように。
忘れ病かと思い、疑問に思ったことをいくつか書き記してみたが。その後、それを読み返した時に思い出せなかったのは、王妃のことだけだった。
政務に支障はない、そう判断し、覚えのない王妃を王宮から遠ざけた。当人に会えば、さすがに気づかれるだろうからだ。それまでにも王妃の姿を何度か確認に向かったはずだが、記載は残ってはいない。
王妃のことを忘れると知ってからは出来る限り書きとめるようにしていたのだが、それでも残らないのだ。目にした姿も、様子も、声も。
目にしたはずの記憶は、目を離した瞬間から消えていく。そして、王妃への関心すらなくなり、覚えていないことすら気にならなくなるのだ。
一昨日の記録は、王妃を見つけた、というものだった。
書きなぐるように感情のまま書き記されている。
王都の街で一人の娘が目に付いたこと。生意気な様であったこと。捕まえようと咄嗟に身体が動き、あれが記憶の何かだと確信があったこと。娘を騎士達に後を追わせ、書き記すために急いで王宮へ戻ったことを。
街で見つけた何かが王妃であるに違いないと判断した。そこにも容姿などの具体的な記載はない。王妃に関する事でも、目や耳で得た情報は早く薄れてしまうが、己の抱いた感情はそれより長く残っているらしい。
一昨日の衝撃がどれほどのものだったのかは、すでにわからないため想像するしかない。だが、己がこれほど乱文を書き散らしている事を考えれば、相当のものだったのだろう。
それが今日のものとは異なる感情であるのは間違いない。
今、家の女主人がティアという名だったことは覚えている。まだ覚えているということは、王妃の名ではないのだろう。
さっき会ったはずであるにもかかわらず、すでに瞳の色も、顔の造作も、交わした会話も思い出すことはできない。ただ、残像のようにその印象だけが残っている。子供が背伸びをしているような危なっかしさと滑稽さをもつ娘だったと。だが、それもいくらか経てば消えて行くのだろう。晴れやかな感情とともに。
今日ここへ来るまでに王都の家の主人としてティアという名は知っており、記述してもいる。ティアが王妃のことであるとは、とっさに思い出すことはできないが、記載を読めば理解は出来る。
ティアという名が明日まで己の記憶に残せたならば、王妃に関する事であっても消えない場合があるという事になる。何かが残ってくれればよいが。
そして、昨日ティアと会った時に捜索していた男イスル。王妃を失踪させる原因となった偽使者を名乗ったイスルは、すでに命を絶っていた。
その現場で国王の文書だと王妃へ見せたと思われる文書が見つかった。
それは偽造ではあるが、文章は本物だった。
執務室の官吏が、その文書に覚えがあったのだ。陛下がそれを書いていたが、インクをこぼしたため途中で破棄するよう命令されたと官吏が証言している。記憶にはないが。その文書が何者かに持ち出され、写されたらしい。
王宮内に偽使者に協力する者がいる。それは非常に深刻な事態であり、内部で捜査を進めさせてはいるが。疑心暗鬼ばかりが広まり、特定には至ってはいない。
それにしても偽使者が王妃に見せたと思われる文書は、王が書くには不用意な文面だった。
王妃が王宮の秘宝を喪失させた責任を負うべきと記していたが、そもそも王宮の秘宝などというものは存在しない。とうの昔に王宮から失われた物なのだ。
王宮の秘宝などというのは幻であり、伝承として残るのみ。そうして消えていくべき存在のはずだった。王宮の秘宝という言葉はあっても、過去の文書からその記述の多くを消されており、実態を知る者は少ない。
それを知っているのは王となる者と、王都にあるエテル・オト神殿の上位神官数名くらいのものだ。
王宮の秘宝が存在しないと知っている己が、その喪失の責任を王妃に課したのは何故なのか。
その答えは消えた記憶の中にある。
記憶を取り戻すことができればわかるのだろうが。そう簡単なことではあるまい。
それよりも先に、国王の使者を名乗り王妃を殺そうとした者を突きとめねばならない。
何者が何のためにそのようなことを謀っているのか。
それが解決すれば……。




