■10話■陛下と
「やはり……そなたが、王妃、であったか……」
二人きりになった部屋で、陛下は淡々とそう口にした。
陛下はおそらく私が王妃だと周囲の状況から判断したのだろう。
陛下付きの騎士達と変装している王妃付き騎士達には当然のことながら面識がある。
陛下がこの家に王妃がいるとの情報を得て来たのだろうから、彼等の警戒感の薄さや態度を見れば多くの事を察することはできるに違いない。王妃がこの家のどこにいるのかということも。
私が王妃だと認識した陛下は、無表情を保ったままそこにいる。
この前までの陛下の表情は、あれでも感情を表に出していたのかと少し驚く。
今の陛下の目は、ガラス玉のように見える。そこに感情を読むことはできない。陛下は何を思っているんだろう。
記憶喪失、健忘症、ストレス、そんな言葉が私の頭に浮かぶ。
「そうよ」
私は陛下に肯定を返しながら、金髪の鬘を外した。
この世界には存在しないといわれる珍しい黒髪を陛下の前に晒してみせる。
王妃が黒髪だというのは、国内の誰もが知っている事実で、陛下には見慣れたもののはず。
しかし、予想していた通り、それを目にした陛下は目をみはった。
「私のこと、どのくらい覚えていないの?」
「……」
「この黒髪に驚くってことは、私の容姿には全く見覚えがないんでしょ? たぶん、声も」
「……そうだ」
「王妃がいるってことは知っているから来たのよね? 私のことを覚えていなくても、王妃のことは覚えているの? それは、私ではない、の?」
「王妃がいることは知っているが、それだけだ。どのような女だったか、覚えてはない。姿も形も、王妃に関する具体的なことは何も覚えてはおらぬ」
陛下は平坦な声で答えた。
たいした事ではないかのように聞こえるけれど、陛下がそう思っているとは限らない。
宰相もおかしいと思っているのだから、陛下は周囲には何も告げていないということになる。私を忘れたことは隠しているのだろう。
「忘れているのは、私のことだけなの? 他には?」
「そなただけだ」
私だけ……。
坦々とした声が私に突き刺さってくる。
私だけを忘れるというのは私が想像したように、陛下の世界から弾きだしたいほど私がストレスの原因となっているから?
「息子のヴィルのことは?」
「覚えている。だが、やや曖昧だ。そなたの騎士達も記憶が薄い。そうだな、そなたが関わるものは鮮明ではない」
私だけじゃなく、私に関わる人の記憶までぼやけてしまうなんて。
それほど、私を中心とした事柄を記憶から消したかった? そこまで、陛下は私のことを嫌だと思っていた?
全然、そうは見えなかったけど。
加害者というのは、案外その自覚がなかったりするらしいし。私は無神経にも陛下のストレスを刺激し続けていたのかもしれない。
「陛下は……私のことが相当なストレスだった、の?」
陛下が私の存在を記憶から消したいと思うくらいに。私の名前を怒鳴るように呼ばなくなったのも、私にすっかり呆れていたから?
私、すごく、嫌われていたの?
陛下は何も言わないから。楽しそうにしていると、思っていた。
でも、違っていたの?
「そうかもしれぬ」
私のこと覚えてないのに同意するということは、今の陛下から見ても嫌悪感を抱く対象に見えるということ。
王宮の秘宝とか全然関係なくて、私へのストレスで陛下がおかしくなっていたのか。
偽の使者も、実は、覚えてない陛下がこっそり指示したものだったりするのかもしれない。あるいは、陛下ためを思った忠臣の仕業か。
消去したいほどの存在になっていたとは、思わなかったなぁ。
私は乾いた笑いを顔に張り付けていた。
何て返せばいいだろう。
どうしたらいいんだろう。
私、どうしよう。
「余がそなたの記憶を欠いているのは確かだが、それはそなたのせいではあるまい」
「……違う、の?」
「そなたごときでどうこうなるほど余は小さくはない」
「そうとは……言えないでしょ」
「そなたがおらずとも余が困ることはない。その程度の存在で、余に過重なストレスを与えられるとは思えぬ」
陛下の言葉は、私の考えを否定するには十分な理由に思えたけれど。それはそれで深々と胸に突き刺さる鋭さがあった。
陛下にとっては、いてもいなくても同じくらい小さな存在。そういうことだ。
私へのストレスが原因で陛下は私を覚えていないのではない。別の理由らしい。それなら、私が原因じゃないなら、よかったじゃないの。
そう思ってみても、私に与えたショックは大きかった。
「なら、何が原因だっていうの?」
「いずれ判明する」
陛下の顔からは読めないけど、陛下の声は断言に近い響きがあった。
「原因に心当たりがあるの?」
「いずれ、わかる」
陛下はそれだけしか答えてくれなかった。私には言いたくないのか、どうせ私は些細な存在だし。
卑屈な気分のまま、ドレスのふりふりを握りしめる。そのフリフリがみじめさを増した。
ええい、些細な存在? それがどうした!
と、私は顔を上げて陛下に向かって口を開いた。
「偽の使者が私を訪れた時、王宮の秘宝が失われたのは私の責任だと陛下が書いた命令書を見せられたわ」
「ああ、あの命令書か……」
「私に責任をとれって。偽使者は私にその命で償えって意味だと思っているようだったけど、陛下もそう思っていたんじゃないの?」
「偽物の言葉は、余の言葉ではない」
「じゃあ、どういう意味だったの? あれは陛下が書いたんでしょ?」
「確かに余が書いたもののようではあったが……」
書いたもののよう? 書いたことを忘れているってこと?
が、何? 何が続くの?
が、だから、何?
私は陛下の言葉を待った。
けれど、陛下は言葉を途中で止めたまま、じいっと私を見つめるばかりで一向に先を言おうとはしない。
そういえば、陛下は椅子に座ったままだけど、私は立ってウロウロしているから、意外に目線が近かったりする。
見つめているだけだった陛下は、私の方へ向けて右腕をあげた。
私に、近くへ来いと言っているらしい。
私の頭の中には疑問符が行列をなしていたけれど、それでも陛下の先の言葉が気になって、私は足を進めた。
私が陛下に近寄ると、手首を掴まれ、いきなり引き寄せられた。突然のことにバランスを崩しそうになったけど、陛下は腕一本で私の体重くらいは簡単に支えられるため転ぶことはない。
でも、突然、何?
私は声も出ないほど驚いているのに、陛下は至近距離で私の顔を熱心に見つめていた。
あまりの近さに、私の目が泳ぐ。
鼻先三十センチの距離でガン見される私の身になって欲しい。
しかし陛下には気にならないらしい。
黒い眉も、黒い睫毛も、黒い目も、黒い髪も、不思議だよね?
わかるけど。
この距離はちょっと近すぎるとわかって欲しい。
私は腰を引こうとするも二の腕をがっちり掴んでいるので引くことができない。
非常に居心地が悪いんだけど、陛下は飽きないのか見るのを止めようとはしない。とりあえず顔から頭に視線が移っただけでも、ちょっと解放感。
「黒いな」
陛下は小さく言葉を漏らした。
そういえば、陛下が私を覚えてないということに気を取られていたけれど。今日の陛下は妙に素直なんじゃないだろうか。
もちろん考えていることが読めるとかじゃないけれど。私を忘れたことを素直に認めたし、今はこうして熱心に見るのを止めない。こんな風に、独りごとを漏らすなんて。
本当に見知らない娘だったら、こんな風に近付けたりするだろうか。
するかもしれない。
無表情だったけど、陛下、実はものすごく興味津津だった?
すごく、すごく、黒い髪とか黒い眉を間近に見たかった?
はじめて陛下に会った頃、陛下はすごく冷たい人に見えた。それに乱暴だった。
でも、たぶんそれは無表情だったせいと、陛下が私への力の加減がわからなかったせいだったのだと思う。陛下の押す力に、私があまりにも簡単に転ぶというか、ふっとぶというか、バランスを崩していた。掴まれたり引っ張られたりすると痛みを感じることもあった。でも私の妊娠がわかる頃には、そんなことはなくなっていた。
今も、私が転ばないようにしてたし、街で会ったときもそう。いきなり肩を掴まれたのに、雑に扱われているとは感じなかった。
陛下は私を覚えてないのに、そういうのは覚えているらしい。
昔、陛下が私を青い目でジッと見るのが気味悪いと思っていたけど、実は、ものすごく興味津津だったんだろうか。冷たい表情をしていたと思うのに。
なんだか変な感じ。
目を泳がせながら一人考え事をしていると、頭が緩み、ばさりと肩に髪が落ちた。
陛下が私の髪をまとめていた紐を解いてしまったらしい。
「なっ、何するのよ、陛下っ! 私の髪はまとめるのが大変なのよ? 鬘がかぶれなくなったじゃないっ」
しまった、陛下って呼んでしまった。
しかもとっさに口から出た声は大きすぎたような気もする。
部屋の外には騎士達がいるし、外に聞こえてもきっと大丈夫よね。
でも、今のは陛下が悪い。
女性の髪のセットを崩すなんて、男性として駄目でしょ!
鬘をかぶるためにきっちりまとめていたから、黒髪には紐の跡がついてぼっさぼさ状態ですごい自由な頭になっているはず。
似合わないフリフリドレスってだけでも悲惨なのに、頭がボサボサってどうしてくれるのよ!
八つ当たり気味に陛下を睨みつけた。
至近距離でも、負けない。
「あとで侍女を呼べばよかろう」
陛下はそんなことはどうでもいいとばかりに気のない返事を返し、また私の黒髪を眺めることに注意を向けた。
陛下は私の髪に指をくぐらせて髪を触ったり、つまんだりして感触を確かめている。
真黒な髪の、一体何がそんなに面白いのか。
理解に苦しむ。
でも、こうして真剣そのものの陛下を見ていると、陛下が私を嫌っているだとか、ストレスを感じているだとか、そんなのはどうでもいいことのように思えた。
陛下はロリコンで、黒髪好きで。
私を忘れていても私の知っている陛下で、中身が変わったわけじゃない。
偽使者の言葉に惑わされてしまったけれど、陛下は今も私の知っている陛下なんだ。
「陛下は本当にこの黒い髪が好きよね」
「……余は、以前もこれが気に入っておったのか?」
「そうね、たぶん。よく撫でていたから。勝手に切ると怒るし」
「……そうか……」
私の髪を眺める陛下。
無表情だったはずの顔が、今はどこか緩んでいるように思える。
疑惑を持った目で見さえしなければ、王都で呼びとめられた時にわかったかもしれない。
陛下が私を忘れている事や、それでも陛下は私を呼び止めたのだということが。
黒髪好きロリコン気質よ、永遠なれ。
黒髪を時間いっぱいまで堪能して、陛下は帰っていった。
そして。
あの偽使者が持っていた私宛の命令書は陛下が書いた本物だという事はわかったけれど。命令書について陛下が何を言いかけていたのかを聞けずじまいだったと気付いた。
けれども、時、すでに遅し。
次こそは絶対に聞く!
そんな決意を固めながら、私はすっかり緊張から解放されていた。
何も解決してないというのに。
「できましたわ、ティア様。では、騎士ボルグを呼んでまいります」
「ええ、お願い。今は騎士ヤンジーがヴィルの相手をしているのでしょう? ヴィルが寝ていないようだったら、あの子をここへ連れてくるように伝えてくれる?」
「はい」
リリアにはまだ何も伝えていないけれど、私の態度から安堵を読みとったらしい。彼女の笑顔にも余裕が見えた。
騎士達に陛下が私を忘れていることを告げるべきか、隠しておくべきか、悩む。
ヴィルにも会わせてあげればよかった。それを少し残念に思った。




