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禽滑釐列傳

作者: そらが

それは、戦国の始まりの頃。

孔子の弟子である子夏は、魏の西河で弟子たちを育てた。

子夏学派の門徒の中に、呉起、李克、西門豹、田子方、段干木、そして禽滑釐がいた。

そのうち呉起、李克、西門豹の三人までもが、史記に伝を残している。

ただ同門とはいえ、禽滑釐は彼らより一世代上の人である。


「未だ儒によって事を成す術を知らず」

禽滑釐は魏を去り、楚に行く。

禽滑釐は他の字を慎子と云い、楚の太子白公勝が慎の地に封じられたときに名乗った慎姓と同じくする。

楚は故郷なのだろう。

この地で、禽滑釐は墨テキに出会う。


墨テキは宋の人とも楚の人とも魯の人とも言われ、楚の魯陽文君の下で、周の人史角の子孫から周礼を学んだとされる。

その墨家思想は、現在では専守防衛や博愛主義などか高名だが、儒家と比較したときには理想を実現することを主意においている。

彼は強く儒教を批判する。三年間も長い服喪、煩わしいだけの音楽、悲観的な宿命論。

これらの打破のため、修行に励むことを是とする。

理想である博愛主義を達成するために、祟りを畏れるよう訴え、さらにその身を削って節制を奨励する。

戦いを批判し、専守防衛をするために命を惜しまず。さらに、篭城戦における軍略を練る。

苦行であるが理想実現のため、禽滑釐は墨テキに師事する。


仕える事、三年。労働に身を費やし、手足は胼胝となり、肌の色は黒くなった。

墨子はこれを憐れむが、禽滑釐はただ道を守ることを欲した。


ほどなく師の墨テキが宋の士大夫になると、共に宋へ向かう。

墨テキは宋公に仕えた。宋公は、宋の景公とされるが、年代に疑問がある。

覇権国家晋の分裂を好機とした楚が、蔡や杞を滅ぼし、その版図の拡大を再開した頃である。

楚の国土は宋に接することになり、宋は大国楚の侵略を受けるようになった。


紀元前439年。

宋は楚軍に包囲される。

墨テキは楚王熊章に非戦を訴えるために楚に赴き、禽滑釐は多くの弟子たちと共に宋に残された。


禽滑釐は、墨テキの命を受けて、300の門徒たちと共に宋の城の守備につく。

聞くところによると、公輸盤は楚の宋侵攻ために雲梯を発明したという。

その名の通り雲まで届くような梯子であり、宋にある堅牢な要塞の城壁も容易に越えられるというものだ。

しかし禽滑釐はこれを恐れない。

それは墨家の強い結束もお陰もあるが、事前に墨子から雲梯への対策を授けられていたのである。

墨子備梯編に曰く、城壁の上から火矢や石、薪木に熱湯などあらゆるものを落とす。

さらに今一つ。敵が来る方に向けて祭壇を築き、神霊を迎える必要がある。

斉は北の国。老齢の者を呼び寄せて彼に主催を任せ、巫師に祈りをさせる。

禽滑釐は墨テキの説得が実を結んで楚軍がその軍勢を返すまで、霊験を待ち続けた。


紀元前415年頃。墨テキは、斉が攻めてくるのを恐れた魯の穆公に召されて魯に住んだという。

魯の国は周公旦の封ぜられた地であり、孔子の出身地でもある。

孔子生誕の地とは言うが、その王侯が礼を重んじたわけではなく、儒者が重んじられた訳も無い。

統治者は魯の穆公だが、彼の父である元公は季孫氏に殺されていて、その代わりに公位に立てられた傀儡だった。

その季孫氏に仕えていた士の中に呉起がいた。

呉起は禽滑釐と同じく儒学を学んでいた。

とはいえ禽滑釐が子夏の門を出た前後に呉起が生まれているから、それまで面識は無かった。

呉起は衛の左氏の人で、子夏学派の中でも魯の曾参の子・曾申に習ったとされている。


紀元前412年。果たして斉が攻めてきた。

墨テキは魯においては斉に対して徹底抗戦することを主張し、自らは斉将の項子牛、さらに斉公姜積に面会して攻戦を批判する。

そして墨テキは、弟子の勝綽を斉の項子牛に仕えさせた。

この戦いの際、呉起が魯の将に任命される。

呉起は豪華奢侈を好む色欲の塊と称されるが軍才は国士無双であり、キョ及び安陽で勝利を得たという。

キョは魯の東端、安陽は北端。

キョについては楚の簡王が紀元前431年に滅ぼした国の名だが、どういった具合で魯に編入されたのかはわからない。


紀元前411年、呉起は讒言を受けて、魯を出奔する。

このとき魯の穆公の頃の宰相は公儀休であり、史記循吏列伝にも名が残っている。

循吏であるからこそ、呉起は迷惑な存在だったのだろう。

他説に季孫氏の脅しを受けたともあるが、よほどの讒言が無い限り脅す理由が無い。

斉は機を逃さずに魯を攻め、領土を奪った。以降、斉公姜積が没するまで魯は斉に繰り返し攻められ領土を奪われたという。

相変わらず項子牛が斉将であったため、墨子は高孫子を項子牛のところに行かせ、これに従軍していた勝綽を叱責した。

要は成果を得られなかったのである。

策が上手く行かなければ依頼主からの褒賞は得られない。

気高い理想を掲げた墨家だが、金の工面は現実的問題として避けられないのだ。

あらたかな霊験もこのことばかりは解決してくれない。

墨テキは面目を失って魯を去った。


後、墨テキは、楚王のもとを訪れて目通りを望むが、老齢を理由に断られている。

このときの楚王は墨子では恵王熊章とされているが、恵王熊章はすでに卒しており実際は不明である。


墨テキは楚で死んだ。


墨テキの死後、墨家は東方・南方・西方の三学派に分裂し、いずれの派も正統を主張した。

禽滑釐は東方の相夫氏の学派の鉅子となって、他の学派と対立した。

当初は南方・トウ陵氏の学派が盛興し、最盛期には西方・相里氏の学派が栄えたという。


禽滑釐の後継者とされる孟勝は楚に仕えていた。地理的には南だが、東方の学派だろう。

紀元前381年。

呉起暗殺に加担したために楚の粛王に恨みを買われた陽城君に従い、その命を受けて采邑の守備を請け負った。

そして楚の軍勢の攻撃を受けて邑が落ちると、宋にいる田襄子に鉅子を譲るよう使者を送り、180人の墨者と共に自刎した。

使者も任務を果たすと、楚に帰って孟勝の後を追ったという。

西方では、秦の恵王の頃、鉅子腹トンが秦国の法に代わって、墨者の法によって息子を処刑したという説話が残る。


韓非子に儒墨は世の顕学とまで言われた墨家は、儒教と違ってその脈を断たれた。

それが焚書坑儒に拠るものなのか、或いは防衛戦術が秦の猛攻によって敗れ去った結果なのか。

いずれにせよ戦国の終わりと共に墨家の学派は滅び、その思想に関しては、ごく稀に触れられる程度となった。

二十二編在った筈の防衛戦術論もほぼ半数が欠落してしまった。

禽滑釐をメインに据えようとしたが調査不足で失敗する。

また年号主義に立つことで起こり得る誤謬がある。

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