第四夜:魚のゆめにっきとピアノ
わたしの手にはトマト。
目の前に広がるのは野菜の山。
好き嫌いのないわたしは、野菜が大好き。
トマトをかじる。甘い。
おなかいっぱいだな。
わたしは歩き出す。
何もない。
ただ何もない場所。
タイルの目を規則的に踏む。
チリン、と音がした。
猫がいた。
なぉ。すり寄るわたしの足は、猫の毛がこすれてくすぐったかった。
…
………
……………
「苦手がないなんて、すごいわね。お母さん、誇らしいわ」
野菜を食べられる事を知った時、お母さんは喜んで言った。
わたしのように好き嫌いが全くないのは珍しいようだった。
わたしはお母さんに撫でて貰うのが好き。
お母さんの暖かい手が好き。次はどんな事したら誉められるだろう。
そんな事を考えてたらお母さんは仕事に行った。
「おじさん、いる?」
わたしは虚空に声をかけた。
「おや、ご指名かな。おはよう、お嬢さん」
おじさんはわたしを見て、少し笑った。
わたしは虚空に声をかけた。
「おや、ご指名かな。おはよう、お嬢さん」
おじさんはわたしを見て、少し笑った。
「またつれてって、おじさん」
「ああ、連れて行こうとも。そうだったね、海だったね。じゃあ海の魚についての話にしようか」
そういうとおじさんは、またテレビに腰掛けて座った。
わたしもベッドの背もたれに掛ける事にした。おじさんはわたしが座り直すのを見届けて話を始めた。
「海には、魚がいっぱいいるんだ。魚といえば熱帯魚みたいなのを思い浮かべる人も多いが…」
そこでわたしは声をあげた。
「おじさん、熱帯魚ってなに?」
おじさんがマスクの下で微笑んだのがわかった。
「熱帯魚というのはね、暖かい海に住む魚の事だ。世界には、暖かい海と冷たい海とがある」
おじさんの説明はなんとなくしかわからなかったが、それでも今日のわたしは何故かわくわくしていた。
「熱帯魚は美しい魚だ。色々な色をしていて、珊瑚や海藻に――。珊瑚や海藻とは海底にある植物のような生き物の事だ」
わたしは海には魚しかいないものだと思っていた。
そうか、海には植物のような生き物もいるのか。
「だが、サメという凶暴な生き物もいる。また、イルカのような優しい生き物もいる。まさに、人の知り得なかった世界なのだ」
わたしは、新たな知識にわくわくしつつ、しかし未だに眠くならない事に疑問を感じていた。
それを感じたかのように、おじさんは言う。
「待ちくたびれたかな?それでは、海へ案内しよう」
遂に来たと思った時には、もう体は浮遊感に包まれていた。
……………
………
…
真っ暗な世界。
ここが、海の中?
イメージと違う光景。
わたしは少女の姿を探した。
やがて、誰もいない事を悟ったわたしは、ひとりでこの「間違った海」を歩いた。
見たことのある魚が、すーっと前に進む光景を見ていくだけ。
なにもない世界。
チリン、と音がした。
右側に向かっていた魚が私の視界から消えた。
「また、わけのわからない世界にいたのね」
後ろに声が聞こえた。
振り返ると、そこには少女がいた。
「さぁ、海を見ましょう」
そう言って少女はわたしを見ると、突然何か疑問を抱いたように黙ってしまった。
話しかけようとした時、少女は私を見てこう言った。
「あなた、扉って使える?」
扉?
たまに見る程度だが。
開け閉め程度なら余裕で出来る。
「―――使えないのね。まるでわかってないのかしら。案内のマスクはどこ?はぐれたの?」
全く意味のわからない事を言い出した少女は、面倒そうにわたしに向き直った。
「いいわ、わたしが教える。………ねぇ、あなたは魔法を信じる?」
少女はわたしの前に手をかざした。
てで円をかくようにして、こう言う。
「海へいきたいな」
いつしかそこには扉があった。
開けた先には、輝く青い世界があった。
「こう。まぁ、扉の形は人それぞれでいいのだけど」
そういってわたしを見る。
「要点は、出来ると信じる事とイメージ。なんたってここは夢の中なんだから」
………。
わたしは固まった。
この世界は、夢?
こ――の世界が夢―っ―――てど――うい―う―――事?
…
………
……………
「そして海の中に扉………おや、お嬢さん。また怖い物を見たのかね?」
おじさんはやはりわたしに話をしていた。
「おじさん、寝た後の世界って、魔法の世界じゃないの?夢って、何?」
わたしは混乱する頭で質問した。
「おや―――夢を知らない?」
「うん。………将来の夢とか言うから、未来の事?」
「いや、違うよお嬢さん。夢とは、眠る前の記憶を適当に繋げて出来る物なんだ。私が、君が寝た後も話をしているのは、君の記憶に世界を繋げているからなんだ」
初めて知った事実に驚かされる。
私は、記憶を辿っていただけ?
でも、確かに海の夢の前には船の本を読んでた。
そうか、わたしは無意識に夢の世界を選んでいたんだ。
「しかし、気になるな。お嬢さんはお母さんに夢という物を教わらなかったのかね?」
確かにそうだ。
何故お母さんはわたしに教えてくれなかったのだろう。
その時、海に少女がいたのを思い出した。
「もう一度、海にいけない?」
「いいとも。悩むよりは夢に逃げるのもいい」
また意識がまどろみはじめる。
視界が、ぼやけて………。
……………
………
…
「おかえり」
少女は待ちくたびれたように座っていた。
「待たせてごめんなさい」
少女は、わたしが喋るようになって面食らっていたが、その本人が喋れた事に動揺していた。
「魔法みたいな夢の扉。ならわたしの扉は自由にしたい」
そう言ったわたしは、指で円を描いた。
真ん中に模様が描かれていく。
イメージが扉になるなら、わたしの扉は魔法がいい。
魔法陣は輝きと共に、どことも知れない場所へと繋がった。
触れると、透き通るように中に入れる魔法陣を越え、部屋へと入ったわたしと少女の前には、一台のピアノがあった。
「これは………何?あなた何を思って扉を開いたの?」
少女はわたしに訪ねた。
が、わたしは何故だか声が出なくなっていた。
「……また、喋れなくなったのね。まぁ、それが当然なのよね」
また意味のわからない事を言い出した少女。
その時、ピアノはキンと音をあげた。
そして音は次第にメロディーとなり、切なく、暖かい曲を奏で始めた。
【参考】
愛と勇気とかしわもち より
『やさしい雨/多夢(TAM)』
奏でられる曲の中、わたしは少女を見た。
少女は、この曲に感動しているようだった。
「あなた、こんな曲を知っていたのね。わざわざ聴かせてくれてありがとう」
彼女は言った。
だが。
そう、わたしはこんな曲初めて聴いた。
夢には、自分の見た物しか、聴いた物しか出ない。
なら、これは誰が見て、聴いた物なのか。
少女もこちらの動揺に気付いたようで、周りを探していた。
チリン、鈴の音がした。
そして、わたしの目の前も同じくしてまどろみはじめた。
…
………
……………
「どうだね、お嬢さん」
おじさんはわたしを見ていた。
「いい、楽しい夢だったわ。ありがとう、おじさん」
「いや、それほどでもないさ。では、私も失礼するよ。また明日、お嬢さん」
「また明日。ありがとう、おじさん」
そう返事する頃には、おじさんは消えていた。
私は、少し考えた。
この楽しい日々を、記録に残そう。
たまに見返せば面白いかもしれない。
そしてわたしは、ピアノが微かに鳴る部屋で、お母さんのくれたノートに名前をつけた。
『ゆめにっき』と。




