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ヴェンデッタ

作者: 朝戸あんり

     ヴェンデッタ


 白い闇の、夢、を見ていた。いや、夢を見ていたような、気がする。

 何故なら、眼を覚ましたこの瞬間から人生が始まったかのように、覚醒する前の記憶が、キレイに抜け落ちているのだから、そう、言わざるを得ない。

 名前も、経歴も、それから何故、自分は動けない(、、、、)のか、何もかもが先ほど見ていたような気がする夢の中に、忘れて、きてしまったようだ。

 正面に見えるのは、木工細工が(ほどこ)された少女趣味の扉。その右隣に、漆だろうか、妙に黒光りする鏡台(きょうだい)があり、反対側にはピンクで統一されたシングル・ベッドが横たわっている。しかし、観察できるのはそこまで! 私は立ったまま、動けないでいるのだ! なんてことだ。唇も、瞳も、指も、もう自分のものではない。何かに自分の意識だけが、乗り移ったかのようだ。

 必死に記憶を探った。ひとつひとつを、思い出そうとした。名前は? 歳は? 昔はどこに住んでいた? 両親は? 恋人は? どうやってここに来た? それから、何故、私はこうなっている?

 どれくらいの時間、真っ白な記憶の中を旅していただろう。何ひとつ見つからないまま、あきらめの色が濃くなったころ、遠くから、アーシア、アーシア、という声が響いてきた。

 アーシア? 私の名前だろうか、いや、自分は男だ。それは、確かなものではなく、ただそう感じるだけなのだが……。それに、アーシアという名に、なんとなく聞き覚えがある。誰だったか思い出せないが、間違いなく、私はアーシアという人物を、知っている。そう知っているのだ! 頭がズキズキと痛み出した。記憶が、戻ってきている兆候かもしれない。

 そのとき、ゴテゴテに装飾された扉が勢いよく開けられた。

 よみがえろうとしていた記憶に意識のすべてが集中していたが、その瞬間忘却へと消え去り、《助かる》という思考だけに切り替わった。きっと、私を救ってくれるはずだ。ここだ、私はここにいる!

 青い瞳に白い肌、そのためザクロのように赤い頬が眼を引く。まだ少女の面影を残す、線の細い若い女性だった。焦燥(しょうそう)とも取れる色を顔じゅうに浮かび上がらせて、彼女は、後ろ手に扉を閉めた。そのあとすぐ、ドアを叩く音がとどろいた。

「アーシア、開けなさい! ここに居るのはわかってるのよ。開けなさいって言ってるの!」

 少しだけ喉の軌道がつぶれたような響きがある。おそらく、中年の女性だろう。この娘――アーシアを殺してしまいそうな剣幕だった。

 もちろん娘は開けなかった。それから徐々に、扉は、静かになっていった。完全に音が絶えたあともアーシアはしばらく動けずにいた。扉を背にし、視線は宙空を舞い、唇は小刻みに震えている。今にも壊れてしまいそうな娘の姿が、私の視界の中いっぱいに収まっていた。

 あらためて彼女を見ると、なんて美しいのだ! どこかの妖精が、人間に化けたような感じだ。世の中の男どもは、道ですれ違うとき、ひとときも視線をはずせないことだろう。

「まあ、そんなところで何をしているの? いけない、早く救急車を」

 というアーシアの言葉を待った。幾分、落ち付きを取り戻しているのだ、危機が去った今、彼女はきっと私を、救って、くれる。

 ところが、そんな願いとは裏腹に、彼女は信じられない行動に出た。

 鼻歌をうたいながら、くるくると回り出し、こともあろうか、鏡台の前に座ってかたわらに置かれていたかわいらしい女の子の人形と会話を始めたのだ!

 なにをしている。私は記憶をなくし動けなくなってこうやって今も立ったままでいるのだ。早く助けてくれ。なんとかしてくれ。ここだ!

 もちろん言葉にはなっていない。心で叫んだだけだ。しかし、それが言霊(ことだま)と化したのだろう、アーシアがおもむろにこちらを向き、腰を上げて近づいていきたのだ。

 このときの私の喜びを、どう表現していいのかわからない。アーシアは、まさしく私の天使(アンジェロ)だった。が、またしても、彼女は想像し得ない行動を取ったのだ。そのときの私の落胆、衝撃といったら言葉にしようがない。

 ああ、彼女は、アーシアは、こともあろうに、私に見向きもせず、隣にある窓を開けただけだった。もちろん見えた訳ではない。震動、空気の移動、視界の片隅に映る彼女の動きから、窓を開けた、としか言えないのだが。何故、私に気づかない? 見ないふりをする? 

 ああ、ああ、そうか、そうだったのか、彼女が、私をこのような状態にした張本人なのだ。

 天使の顔をした、魔女なのだ。なんだ、じゃあ仕方ないじゃないか。はははは。

 それからというもの、アーシアとの鬼妙(きみょう)共棲(きょうせい)が始まった。ともに暮らす、とは言っても、アーシアの(かたわ)らでただじっと、私が、見守るだけなのだが。

 最初のうちは、如何(いか)にしてアーシアへの復讐劇(ヴェンデッタ)を成し遂げるか、ただそれだけを考えていた。しかしその怒りも、風にあおられて形を変える雲のように薄くなり、なんだか親のような心境になってきている。彼女の健康な姿を見ているだけで、私の心は満たされたのだ。

 いつまでも眺めていたい女性だった。笑顔の絶えない女性だった。その笑顔を見るのが、ともに過ごすのが、私の唯一の楽しみだった。アーシアの鼻歌を聞くのが、私の癒しだった。そして、ときおり見せる涙。その涙が私にとって、人間との境界線を越えさせないでくれていた。

 いつまでも、このような生活が続くと思っていた。また、アーシアと暮らせるのならば、このままでいい、とも考えていた。

 しかしそれがどうだ! アーシアは、ああ、なんてことだ、私という存在がありながら、見知らぬ男を部屋に連れ込んだのだ。シャツの中から浮き出る筋肉、肌は白いが、弱々しさは感じられない。端正な顔立ち。若い女性にさぞかし人気があるだろう。それほどの器量(きりょう)なのだ、だから、男が持ってきたミモザの花を嬉々として受け取り、アーシアは、髪に飾ったりしているのだ。

 覚えているぞ! ミモザの花を忘れるはずがない。ということは、今日は女性の日フェスタ・デラ・ドンナなのか。今ごろ街中はブドウの房のような黄色い花で埋め尽くされているのだろう。普通の身ならば、間違いなく私はアーシアに花束を贈っている。最近では、上司や同僚、親にもミモザをプレゼントするのだが、そんなんじゃない、アーシアのよろこぶ顔が見たいのだ。彼女に、私の花を受け取ってほしいのだ!

 それからの日々は、私にとってとても耐えられないものだった。何故なら、アーシア、それから筋肉男との生活が始まったのだから。

 そんな笑顔を見せないでくれ。彼のために賞賛(しょうさん)の言葉を発しないでくれ。視界の中を彼だけで満たさないでくれ! 慈しむように触れる君の手、暖かい息を、私だけに与えてくれ。

 いくら願ったところで、言葉、に出来ない。行動と言葉を失った私は、はたして、人間といえるのだろうか……。人間を、もう、捨てなければならないのだろうか……。

 気がつくと、私の眼がとらえている映像が変わっていた。茶色の木目(もくめ)が広がり、そこからぶら下がる小さなシャンデリア、それが、天井だと認識するのに時間は掛からなかった。

 どうなっているのだ? といぶかしみ、身体を動かそうとしたが、あい変わらず植物のそれだった。あきらめたがすぐにアーシアの顔が右側からぬっと這入りこみ、それから腕を伸ばし、皮がボロボロになっている指をまっすぐにして、なにかドロッとした液体を、私の眼球に塗り始めたのだ!

 悲鳴を上げたかったが、もちろん、私の口はかたく結ばれたままだった。それでも、必死に、助けを求めた。その願いを叶えてくれたのは、こともあろうに、筋肉男だった。

「まったく――な。――てるみたいだ。――――か?」

 そこで眼が覚めた。今度は真っ白、ではなく、ちゃんとした夢だったようだ。愛する者に、好きなように(もてあそ)ばれる夢。それはお世辞にも、心地よいものではなかった。それに、筋肉男が何ごとかを呟きながら、ぺちぺちと、私の頬を叩いているのだ、寝起きも、最悪だった。

彼の姿を間近に見て、この男とは初めてではない、という思いが浮上した。どこかで会ったことがある。知人だろうか、知り合いならば、助けてくれるのでは? と安堵したが、彼は(きびす)を返し、「寒いから暖炉に火をつけるぞ!」と遠くに叫んだ。

「ダメよ!」と声が聞こえたかと思うと、扉が勢いよく開き、アーシアが血相を変えて飛び込んできた。すぐさま筋肉男のそばまで駆け寄ると、彼の頬をバチンとはたいた。それからひと悶着(もんちゃく)あった後、筋肉男は肩を震わせながら出て行った。

私は彼女を助けてやれないやるせなさ、また、自分自身に対する怒りで、ふたりがどういった罵声(ばせい)を発していたのか、もはや覚えていない。アーシアが、ベッドにつっぷしてすすり泣きを始めたときに、やっと、冷静さを取り戻したのだ。

 筋肉男とはもう終わりなのだろうか。そう考えると、心が軽くなるのを感じた。それと同時に、彼女を慰めてやれない、切なさ、が私の心臓をかきむしった。

 それにしても私の身にいったい何が起こっているのか。壁に魂が乗り移っているのではないのか、と考えもした。ところが筋肉男は私の存在に気づいた。ということは、壁説は消えた。そこで閃いたのが、アーシアと筋肉男の共犯だった。それならば辻褄(つじつま)が合う。ふたりで私を殺し。死体をここに立てているのだ。

 信じられないことだ! 私が何をしたのだろう? 思い出そうにも、私の脳はうまく機能してくれない。腕も脚も指も唇も(まぶた)も、もはや私のものではないのだ!

 私の全身を覆う絶望も、アーシアとの暮らしが戻ったことにより、いつしか薄らいで行った。

 しかしまたしても、こいつの登場で平穏は粉々にされたのだ!

 あろうことか、乗り込んできた筋肉男がアーシアに暴力をふるったのだ! 俺は別れないからな、殺してやる、などとわめいている。

 このときの私の無力感は、他の誰よりも、重く、のしかかっていたと思う。それというのも、わずかだが、左手の小指が、ピクピクと、巣から落ちた小鳥のように動いていたような感覚があったからだ。だけどそれが私の精一杯だった。

 アーシアの顔が変形しだしたころには、筋肉男は、眼に涙を浮かべていた。許してくれ、俺は悪くないんだ、お前のことを愛している、お前のせいだ、などとみじめなことを並べながらも、手は止めない。これ以上は死んでしまう! という私の心の声を聞いてくれたのか、筋肉男は、肩で息をしながら部屋から出て行った。

 (こま)かくて短い息を吐きながら、アーシアはベッドから起き上がれずにいた。私もまた、心の中で、すすり泣いていた。

 これが最後だと信じたい。筋肉男は怒りのすべてを発散したはずだ。このまま、アーシアのことをあきらめて、ほしい。あとは彼を、信じるしかない。私には、願うこと、と、見守ることしか出来ないのだから……。

 アーシアの顔の()れが引いてきたころ、私はため息を吐いてしまった。それもそのはず、信じられないことだが、アーシアは、筋肉男を部屋に招き入れたのだ、しかも笑顔で筋肉男に愛の言葉を並べているではないか! なんてことだ。どうかしている。何故あれほどまで痛めつけられて、またやり直そうなどと考えられるのか。私には理解できない。しかし、それが女心(おんなごころ)というものなのだろうか。もしもそうだとしても、理解したいとは思わない。

 再び、三人による鬼妙(きみょう)な生活が始まった。それと同時に、私は、もうずっとこのままだろう、このままならそれを受け入れて、楽しむ方法を探そう、と気持ちを一転させた。

 身体が動かなくなり、壁際に立たされて動けなくなり、誰も経験したことのない境遇に見舞われたからこそ、そう思えたのだろう。

 今はもう何も感じない。彼らが、どんなに仲むつまじく振る舞おうとも、嫉妬も、怒りも悲しみも、何ひとつ感じない。それでもいい、と私は、考え、ていた。

 それが、私の生きる道だ。そう、悟りに近い境地に達したとき、またしても、信じられない出来事が起こった。

 アーシアが、筋肉男をずるずると引きずりながら部屋に這入ってきたのだ。窓からは闇しか降り注いでこない。小さなランプの明かりだけが頼りなのだが、そのせいかもしれないが、どう見ても、引きずっているようにしか見えないのだ。なんと異様な光景! 今が夜なのか明け方なのかは知らない。そんなことはどうでもいい。最初は、酔いつぶれた筋肉男を彼女が運んできたのだと思った。ところがそうではないと気づいた。筋肉男の様子が変なのだ。どう変なのかというと、それがうまく説明できない。真実味(クレディビレ)に欠けるのだ。本当に、筋肉男なのだろうか。衣服はいつものそれだが、白くて薄い膜、のようなものが彼の肌を覆っている。頭が痛い。筋肉男は背筋をピンと伸ばし、まるで銅像のようだ。アーシアは重そうな男を必死に引いている。頭が痛い。アーシアは一度立ち止まり、筋肉男をその場に立たせ、一息ついた。頭が――そのとき、男と視線が合った――痛い。

 光が、短い光が、私の眼の中に入り、それから、それから過去が、踊り(バッラーレ)を始めた。

 痛覚を持たないはずの脳髄が悲鳴を上げている。

 誘ってきたのはアーシアだった――頭が痛い。

 アーシアは学校でひときわ美貌を放つ存在だった。誰もが、彼女に視線を吸いつけられた。だから、校門前で彼女に声をかけられたときは、周りの仲間に叩かれるのも気にならなかった。このとき私はどんな表情を浮かべていただろうか――《痛み》が毛細血管を通り、全身に駆け巡る。

 彼女とともに過ごす毎日が、どれほどすばらしい、世界だったであろうか。ひとときも離れたくなかった私は、彼女が受け継ぐ、仕事を、手伝うようになっていた。アーシアは父とのふたり暮らしだったので手助けしようと、自ら志願したのだ。学校を卒業し、それからはずっと(わずか数カ月なのだが)いっしょだった―強烈な突風が、脳を揺らす。

 母親はどうなったのか、何故、父親の仕事を引き継ぐことにしたのか、いろいろと詮索(せんさく)をしたのだが、彼女は笑うだけで何も答えてくれなかった――吐き気が込み上げてきた。

 そうだ、そうなのだ、この《仕事》が、私の人生を狂わせたのだ! 誰か、この頭痛を止めてくれ。スプーンですくわれても、フォークで(つつ)かれても、痛みを感じないはずの脳髄が、全身に激痛を運んでいるのだ! 助けてくれ。この痛みが取り除かれるのならば、過去なんて知らないままのほうがいい。しかし容赦(ようしゃ)なく、次から次へと、記憶が蘇る。いやだ!

 アーシアはこれまでにも大勢の男性と付き合ってきた。だからみながひやかした。どうせお前もすぐに捨てられるんだ、と。特に執拗(しつよう)だったのが、筋肉男だった。そう、筋肉男だ! 私は彼と同じ学校にいたのだ。同級生なのだ。わかったぞ。筋肉男が嫉妬のあまり、私を殺したのだ。いや、そうじゃない。そんなことはあり得ない。彼では、不可能(ふかのう)なのだ。

 そう、私を《このようにすることは出来ない》のだ!

 私の右手の骨がズキズキと痛みだした。思い出したのだ、私もまた、筋肉男と同様、アーシアを殴ったのだから! 彼女の奔放(ほんぽう)な性格が、男心を狂わせるのだ! アーシアを、自分のものにすることは、誰にも出来ない。だから手を出して、力に頼ってしまうのだ。誰もがそうだ。

 アーシアが謝ってきた。ワタシが悪かったわ、と。もう一度やり直しましょう、あなただけのものになるから、と。

 誰がその甘い誘いを断れよう!

 私は信じた。疑うことは不可能! 有頂天だった私は彼女の仕事の手伝いを再開した。それがすべての間違いだったのだ。

 思い出したぞ! 私の記憶は今、完全に戻った。

 アーシアが私の右側に来た。

 彼女が取っている行動、私の身に降りかかった災難、筋肉男の末路、アーシアに怒鳴った中年女性、すべてがつながった。とても信じられないことだがこの身に降りかかっているのだから信じなくてはならないしかしそれは絶望と落胆でしかないのだが私はあきらめない何故なら動いているのだから、そう、動いている(、、、、、)のだ!

 ア~シア~!

 はっきりと、そう、言えたかどうかはわからない。言葉をちゃんと言えたかどうか、そんなことはどうでもいい。声を出せた(、、、)かどうか、が大事なのだ。そんな私の不安はすぐに消え去った。何故なら、彼女は呼吸を忘れて私を見つめているのだから。

 すかさず、アーシアの首をつかんだ。右手だけだったが、指の腹に彼女のぬくもりが伝わっている。筋肉男のように、幕に覆われている指なのに、だ! 

 アーシアの首は、細くて白くて、すぐにも折れてしまいそうだった。そして私は、折る、つもりだった。そのまま、ぐいぐいと力をこめる。

 イチジクのように赤いアーシアの頬が、見る間に蒼ざめて行く。その変化を眺めながら、私は視線を変えた。

 フリルのついた白いカーテンの隣に、筋肉男が立っていた。その肌が、何故、薄い膜に覆われているのか、何故、彫像のように固まっているのか、筋肉男に何が起こったのか、私に何が起こったのか、すべてを思い出した今、私にはわかるのだ! ああ、なんということだ。

 私は、否、私たちは、生きたまま――

 (ろう)人形にされてしまったのだ!

 アーシアの手の火傷、赤い頬、それらは蝋人形師につきまとう。

どんなに寒くても、暖炉に火は入れなかった、否、入れられなかったのだ!

壁一面に、見知った顔が、ずらり、と並んでいた。六人、七人、八人……そうだ、あの、歯が欠けた男は私の前にアーシアと付き合っていた男だ。その隣も、またその隣も、アーシアと交際していた者たち。

 私はさらに、腕に力を込めた。アーシアのか細い首が今にも折れそうだ。構うものか!

「私の行方は、母さんに感づかれているだろ? また乗り込んでくるぞ。なぜ君が、このような凶行におよんでいるのか、今となっては知る(よし)もない。しかしもうそんなことはどうでもいい。どっちにしろ、君の人生はここで終わりなのだ。ならば、愛する私の手で、断ち切ってやろう」

 アーシアの呼吸が、小さくなってきた。身体全体からも力が抜けてきている。

 もう間もなく、私の復讐劇(ヴェンデッタ)は幕を下ろすのだ。

 彼女が死んだら、その亡き(がら)を地下の蝋人形製作所まで運ぼう。アーシアの父親に見られれば邪魔をされるだろうが、もう死んでしまったのだから今の美しいままの姿を残そう、と言いくるめられるはずだ。むしろ、手伝ってくれるかもしれない。

 臓器を吸い取り、みつ(ろう)と植物性の蝋にプラスティックを使ってアーシアの肌の上に薄く塗る。空気に触れさせなければいいのだ。普通の蝋人形を作るのは数か月ほどかかるが、普通ではないのだ! 異常きわまりない行為なのだ、すぐに完成する!

 私の未来(みち)は決まった。これからは永遠に、アーシアと生きる。

 それなのに、どういうことだ、私の腕から、力、が抜けて行く。はじめは小指、次に薬指、それから親指に至るまで、力が抜けて行ったのだ。

 アーシアはその場に倒れこみ、(のど)をおさえて咳きこんでんだ。

 私に彼女を殺すことなんて、出来ない、と悟った。こんな姿に変えられたというのに、私はまだ彼女を愛しているのだ。まったく、どうかしている。

 私は、彼女を起こしてやろうと手を伸ばした――が、その必要はなかった。

 私以外の、他の、蝋人形たちが次々と動き出し、アーシアを持ち上げたのだ!

 助けを求めるアーシア。宙を舞う彼女の腕。しかし私は、手を伸ばすことができず、ただ、見守っていた。見る間に、彼女の身体が解体されて行く。腕がもがれ、脚をひきちぎられ、それから頭部も離れた。鮮血がほとばしる。生臭い粘液を含んだ空気が私の鼻腔(びこう)から吸入される。これが、アーシアの真の香りだ。二度と忘れることは、ない、だろう。

 私は歩を進めた。向かう場所は決まっている。一直線に歩く。

 背後で歓喜の歌が響いている。私はそれを背に受けながら、暖炉に火をつけた。

 変化は、すぐに、(おとず)れた。

 原型を失っていく手。火に一番近かった右手はもう、人間のものと呼べるしろものではなかった。しかし痛みはない。だから止まらない変形を、ぼうっと、眺めていた。ふと、視界の片隅に、眼玉が転がっていることに気づいた。眼球が青い。誰のものだか、すぐにわかった。その隣には筋肉男が持ってきたミモザの花がひと房、落ちている。

 私は花束のほうを優しく拾い上げ、どろどろにとろけ始めている、自分の眼窩(がんか)に、そっと、埋め込んだ。

                                         了


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