美咲の日記 その5
美咲の日記 その5
3月3日(土) 天気・晴
昨日の学校帰りに真由があたしに「出掛けよう」と誘ってきた。どこへかは「内緒」だといい教えてはくれない。ただ「見せたいものがあるんだ」とだけいって、もったいつけていた。真由がこうしてあたしを誘ったのは何年ぶりになるだろう。
待ち合わせ場所は、隣り町のバス停。その方が目立たないからだと、真由は指を立てていった。
何故目立たなくしなければいけないのか。真由が気を遣う理由がある。それはあたしの両親のせいだった。前からこの日記には何度も両親のことを書いてきたけれど、他の親たちと違う部分は誕生日やクリスマスの高価なプレゼントだけではなかったのだ。
あたしは小さな頃からピアノのレッスンやお華のお稽古に通わされていた。学校のクラブ活動は一切させず、学校の友達とも一切の関係を持つことがないように、登下校も送迎バスだった。その方があたしの行動をすべて把握できるから。
あれは中学二年の夏のことだった。学校の友達とも遊べないあたしは当然、クラス内で独りになることが多かった。学校内だけの付き合いじゃ話があうはずがない。自然とあたしは作り笑いを覚えていた。
そんな中、真由だけは違った。真由とは何故か話しが弾んだ。真由とだけは自然な笑顔でいられた。
「さぼっちゃいなよ」その言葉の重さや責任感など、中二のあたしは考えることすらしなかった。
ある日の放課後、真由とあたしは学校の裏門から逃げた。正門には送迎バスが停まっているから。ドキドキしながらもワクワクの方が強かった。あたしの手をしっかりと握り走る真由の背中を、あたしはずっと見つめていた。次第に乱れてくる真由の呼吸も、風に乗ってくる真由の香りも、すべてがあたしの心を揺り動かしていた。
気が付くと見知らぬバス停の前にいた。とんがり屋根の帽子みたいな小さな小屋だった。真由は、早くおいでよ、といってそこに飛びこむように駆けこんだ。
「ここなら大丈夫だからね」と肩を大きく上下させながらも、片眼を瞑った。
「どこに行くの?」
「内緒だよ」とニカって笑った。
全力で走ったあたしたちの額からは汗が噴き出していた。
「はい、これ使って」とあたしは真由にハンカチを手渡した。真由は、ありがとう、といって受け取り、額をパタパタとはたいていた。
「ねえ、窮屈じゃない」とあたしはいわれたので、ごめんね、といって腰を遠ざけた。
「そうじゃなくて・・・毎日がさ」
「・・・」あたしはどう答えていいかわからずに俯いた。
「怖い?怒られる?」
あたしは、ぜんぜん、とかぶりを振った。
「それならいいじゃん。たまに息抜いてもさ」とあたしを励ました。
それからほどなくして、ふぉんふぉーん、とバスがやってくる音が聞こえた。真由はそれを聞いて、ムクっと立上り「今日は楽しもうよ」と歯を見せたのだった。
さぼったことはすぐにばれた。ピアノの先生が自宅に連絡を入れたのだ。あたしの中に、ウザイ、という感情が、その時初めて生まれたのだった。
こっぴどく叱られた。口を押え息を殺し涙ぐむお母さんと、睨むようなお父さんの視線。
「何を考えてるんだ」
お父さんは俯いていった。
「心配したのよ。美咲ちゃん」とお母さんは顔を手で覆った。
それからもしばらく叱られた。でもどこか、何かがヘンだった。あたしの心の中に届かないというか、響かないというか。どこか他人行儀な感じに聞こえて仕方がない。
「美咲ちゃんはいいこだから、もうしないよね」
「もうお父さん達を心配させないでくれよ」
「何か欲しいものでもあるの?あるなら遠慮しないでいってね」
「それにしてもけしからんな。美咲をそそのかすなんて、どういう教育をしてるんだ」
「ピアノの先生には明日、きちんと謝るのよ」
「その家には、私からきつくいっておくからな」
「また良い子でがんばろうね」と。
それらの言葉は一体、誰に向けられたものなのだろう。合わすことのない視線。いいっ放しの言葉。冷たいテーブル。冷やかな空気。
「わかったよ」あたしはそういうしかない。「ごめんなさい」と。
それを聞いたお父さんとお母さんは、満足げに席を立った。まるで仕事をひとつこなしたかのように。いつものテーブルが、今日はやけに広くやけに遠く感じられた。
もうあれから3年も経ったのか。高校に入ってからは習い事もやめ、結構前よりも自由になったと思う。でも依然として5時の門限は変わらないけど。
いつもより早起きをし、いつもより早く家を出た。いつもは着ない余所行きの服を着て、いつもは履かないパンプスを履いた。着る物にはお陰さまで困ってはいない。
待ち合わせのバス停までは約20分。あたしは朝の清々しい空気を深く吸いこんだ。まるで何かから解放されたような気分だった。大きく吸いこんだ胸も、大きく伸ばした腕も、すべてが、自由、って感じられた。
バス停までの道のりは、海沿いの国道1本だけ。大海原を望むその国道は、夏になれば潮の香りを運んでくる。そして天気のいい日は、遠くに青森の島影が見えるのだ。
今日は雪も降ってなく風もないので、比較的海沿いを歩くにはちょうどいい気候だった。それこそ遠くに見える島影を眺めながら「あそこにはどういう人が暮らしているんだろう」と心を弾ませながら目的地を目指した。
海沿いの道はクネクネと曲がっている。大きなカーブを2つほど曲がると、遠くにあの小さなとんがり屋根が見えてくる。あたしはまた潮の香りを嗅ぎながら歩き続けた。右側には海。そしてその反対側には削られたような崖が聳えたっていて、その上にも家が立っているのが見えるのだ。あたしはそこからの絶景を想像しながら最後のカーブを曲がった。
箱入り娘ではないにしても、閉ざされたあたしの行動範囲。見るものすべてが新鮮で、前に一度通ったことのあるこの道も大袈裟に懐かしく感じていた。
そう、このとんがり屋根の停留所もだ。
あたしは中に立ち入る前に足を止め見回してみたが、真由の姿は見当たらなかった。「もう来てるのかな」と呼吸を整え、入口の脇から覗くように体を傾けた。すると中にはベンチに座り、大胆に足を組んだ真由の姿があった。真由はあたしをみつけるなり「よお」と手刀を立て、オジサンのように挨拶してきた。あたしはそれに笑顔を返した。
「何それ、隠れてるつもり?」
「い、いや別に・・・」と慌てて飛び出し「知らない人がいたらどうしようかと思ってさ」とあたしは地面をひとつ蹴っ飛ばした。
真由はそんなあたしを見て、フフフ、と笑った。
遠くで、ふぉんふぉーんとバスがクラクションを鳴らした。もう到着する合図だ。真由はあたしを追い越して、外に出ていった。あたしもそんな真由の後を追った。赤いラインの入ったバスが目の前で停まった。車輌の真ん中の扉が開くのを二人で待っていると、プシーという音の後に、ブーというブザー音と共に扉が折れながら開いた。真由は待ちきれないのか、フライング気味に飛び乗り、入口の脇にある小さい箱から出てくる白い紙きれを摘まんであたしに見せた。「これ、取るんだよ」って。
あたしはバス自体が久し振りのことなので、どこか恐る恐る乗り込んでいた。真由にいわれた通りあたしは白い紙きれを1枚摘まみ、顔の前に持ち上げ眺めた。それには青いインクで「2」と掠れた文字が書かれていた。その掠れた文字は何となくあたしの記憶の片隅に残っていたらしく、自然とにやけてしまった。
一番前の席に座った。運転手さんとは反対側の一番前。そこの方が迫りくる景色を見ることができるから。バスにはあたしたちの他におじいさんとおばあさんの二人が乗っていた。多分、白い紙には掠れた文字で「1」と書かれているに違いないと思い、またにやけてしまっていた。
バスはまた、ふぉんふぉーんとクラクションを鳴らして発進した。ゆっくりと流れる景色。あたしはそのスピードに合わせて視線を動かした。煌めく海が眩しすぎる。あたしは何度も瞬きをしていた。今が夏であれば、窓を全開にして顔を出し大声で叫びたい気分だった。
さっきあたしが来たクネクネした道を戻るようにバスは進んだ。やがて、見慣れた景色が見えてきた。真由とあたしが住んでいる町だ。バス停には誰もいなかったので、バスはそのまま停まることなく通り過ぎていった。通り過ぎる瞬間、あたしの胸は少しだけドキドキしていた。だって知っている人が乗ってきたら、どうしようと思ったから。
バスは再び、落した速度を上げた。次のバス停に向かうために。そしてまたそこで知らない人を迎え、乗せて、また走り出す。それをあと何度か繰り返すと、あたしたちの目的地に着くのだろう。でも真由はまだあたしに行き先を教えてはくれない。真由は一体、あたしをどこへ連れて行こうとしているのだろうか。そしてそこには一体、何があるのだろうか。あたしを何が待ち受けているのだろうか。不安ともつかない疑問が溢れてくる。あたしは真由の横顔を見た。
真由は楽しそうな笑みを浮かべていた。




