絹枝の日記 その二
絹枝の日記 その二
三月一日 金曜日
翌朝。
律子は双子に授乳をするため、看護婦さんに呼ばれて部屋からでていった。
わたしは顔を洗おうと手提げのバッグから手拭いを取りだし、洗面所へと向かった。洗面所は待合室の奥のトイレの隣にある。廊下を通り抜け待合室に差しかかった。すると昨日の男性が昨日と同じ場所に座っているのを見つけた。わたしがすぐ後ろを通っても肩を落したまま微動だにしなかった。
顔を洗い、歯も磨き終え律子の病室に戻ろうと再び待合室を通ると、さっきの男性の姿はなかった。わたしは新生児室のガラスに鼻を寄せ、ガラス越しに双子を確認し、安心したわたしはホッとひとつ息を吐いてから病室へと歩き出した。
律子は授乳を終え部屋に戻っていた。昨日からいいだせなかったことを、わたしは今告げようと思った。
「どこ、行ってたの?」
何も知らない律子が呑気な顔をした。
「ん?洗面所、顔洗ってきたのよ」とわたしは手拭いをバッグにしまいながらいった。
「お風呂入りたいね。なんか、体が汗っぽくて」
「それは仕方がないよ。昨日頑張ったばかりなんだから」
「それもそうだね」と律子は明るい笑顔を見せてくれた。わたしはその律子の笑顔を見て、今しかない、と思った・・・その時だった。
病室の戸が勢いよく開けられた。わたしと律子は同時に入口の方に振り向いた。するとそこには、待合室にいた男性が立っていたのだ。髪は乱れ、息は荒く、瞼は腫れあがっていた。
「どちら・・・さまですか?」
律子は丁寧ながらも恐る恐る訊ねていた。
男性はそれには答えずに、大股で一歩踏み出した後、突然膝をつき両手を床に伸ばした。驚いた律子はわたしの袖を強く掴んで引っ張った。
男性は深く垂れ下げていた頭をグイッと持ち上げ、想像を絶する言葉を放った。
「お願いがあります・・・」
わたしの隣で、律子がごくりと固唾を飲む音が聞こえた。
「双子ちゃんの片方を養子にいただけませんでしょうか」
わたしと律子は目を丸くし、同時にお互いの顔を見合わせた。そしてまた同時にその男性の方へと視線を戻した。
「昨夜の騒ぎで御存じかと思います。自分たちは生まれたばかりの娘を・・・失いました。突然のことでした。突然すぎて今でもワケがわかりません。妻はそれからひと言も喋らず、床に伏したまま起き上がれる状態ではございません」と男性は再び頭を下げ、ワックスの利いた床に額を当てた。
「常識的には有り得ない事は重々承知の上でいっております。こんなことはいうものではないのでしょうけど・・・そちらも昨夜ご主人に不幸があったと伺いました」
「かえって・・・帰って下さい」
律子は急に取り乱し、声を張り上げた。男性はそれでも動じることなく続けた。
「怒る理由もわかりますし、そのショックの大きさも、大切な人を失った者として理解しているつもりです。しかし、これからアナタはあの双子の母親として、独りで生きていかなければいけない。どちらも欠かすことなく平等に育てていかなければいけない。心の支えをこういう形で失った今、アナタ独りにかかる責任はとてつもなく重大です」といい終わった後、顔をゆっくりと上げ神妙な表情を見せたのだった。その頬には涙が幾筋も流れていた。
「あ、あなたには関係のないことです。いい加減にしないと・・・警察を呼びます」といって立上り、男性を立たせ廊下に押出してしまった。戸を閉める音が思いのほか大きかったので、遠く新生児室の赤ちゃんたちが一斉に泣き始めたのをわたしは覚えている。
律子はまた頭から布団を被り、声を出して泣いてしまった。我が子を産んだ喜びと亭主を失った悲しみとで律子の精神状態は、糸一本よりも繊細で敏感なものなっていたのだ。そんな時に、こんな事をいわれたものだから溜まったものではない。
そんな律子を見ていたわたしは、またいいそびれてしまった。




