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日記  作者: ダイすけ
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絹枝の日記 その一

絹枝の日記 その一


平成八年二月二十九日 木曜日


 午後三時半過ぎに律子が苦しそうに電話をよこした。

「陣痛が始まった」と。

 わたしはすぐさまタクシーを呼びつけ、用意していたバッグを手にした。

 わたしがタクシーで到着すると、腹を抱えるようにして律子が横になっていた。陣痛の間隔が短くなってきたのを腕時計で確認したわたしは、再びタクシー会社に電話をいれた。車はそれから十五分ほどでやってきた。痛がる律子を支えながら歩かせた。タクシーの運転手さんもそれを手伝ってくれた。

 産科につくとまっすぐ律子は検査室へと通された。場合によってはすぐ産道が開くこともある。そう思ったわたしは律子の携帯電話で夫の一成さんに電話したのだった。

 一成さんは今、函館から三時間くらいの所の松前で仕事をしていた。数日のうちに産まれるかもしれない状況でも、やはり仕事をしなければいけないのが一家の主というものだから。わたしから連絡を受けた一成さんは喜びの声を出した反面、律子を心配する声も出していた。

 わたしはそれに「大丈夫よ」といってあげた。

 午後七時五十分頃。律子の陣痛はさらに短くなり五分ほどになった。律子はその時から痛がる様子を見せるようになり、わたしの緊張感もいやが上に高まっていった。

 それから三十分が過ぎた頃、律子の陣痛はピークを迎える。そろそろだと感じたわたしは腕時計を見た。一成さんに連絡してすでに三時間あまりが過ぎていたので、気になっていたのである。もういつ分娩室に運ばれてもいい状態だったから、わたしは心配が先に立ちもう一度一成さんの携帯電話を鳴らした。

 今、木古内を走っていると一成さんはいった。昼間降った雨で路面が濡れていて走りにくいといっていた。わたしは「気をつけてね」と伝えて切ったのだが、わたしが電話を切る瞬間、一成さんが何かを喋っていたように聞こえたので、慌てて携帯を耳に当て直したのだが、すでに電話は切れた後だった。

 わたしは、少しだけ後悔していた。

 午後九時五十分ちょうど。律子は腹を押さえたまま分娩室に運ばれていった。安産であることをわたしは願い両手を固く結んだ。

 待合室にわたしはいた。ただいま出産中の律子のことも心配だったが、いまだ来ぬ一成さんの方が心配で堪らなかった。わたしは何度も、何度もリダイヤルをした。でも一成さんはそれに出ることはなかった。

 午後十一時五十八分。もう少しで今日が終わると、待合室の掛け時計を見上げてそう思った時、壁の向こうで産声が聞こえた。わたしは思わず立ち上がっていた。そして、その約十分後、律子はもうひとりの子も無事に産んだのだった。

 双子の女の子だった。二人の看護婦さんがそれぞれに双子を抱きかかえ、わたしの元に見せにきてくれた。母子ともに健康だとも教えてくれた。

 わたしは双子の顔を交互に何度も見比べた。ぷりんっと張り裂けそうなほっぺた。指で突っつくだけで割れてしまいそうなきめ細やかな肌。そしてそれが真っ赤に染まっているのだ。まさに「赤ちゃん」だとわたしは思った。

 わたしの娘の律子が、あの泣き虫だった律子が、こんな立派な赤ちゃんを産むなんて。わたしはそれぞれの手でそれぞれのほっぺたを摩った。

 出産を終え、落ち着いた頃病室に戻された律子。彼女はわたしの顔を見るなり「一成さんは?」と訊いてきた。わたしは首を横に振りながら「何度も掛けてるんだけど・・・」と申し訳なさそうに答えた。

 それから間もなくだった。律子の病室に警察官が二人やってきた。わたしの胸は急にざわついた。少し前から感じていた嫌な予感を背の低い方の警官が、手帳を片手にして無表情で告げてきた。

「木村一成さんは、茂辺地の道路で事故に遭いました」と耳にしたわたしは、両手で顔を覆っていた。律子はどんな顔をしていたのかわからなかったが、聞くからに毅然とした口調で続きを訊ねていた。背の低い方の警官はまた感情を出さずに口を開いた。

「ただ今、事故現場を検証中ですが現時点でわかっていることは、海岸線のカーブを走行中に雨で濡れた路面でスリップし、ハンドルをきったがそのままガードレールに衝突したということです。ただ・・・」と背の低い方の警官が初めて言葉を詰まらせた。

 律子は「いって下さい」と返したが、その声は震えたものだった。

「木村一成さんが嵌めていた腕時計の針と運転席の足もとに落ちていた携帯電話の着信時間が・・・近かったんです」

 わたしはその時、背の低い警官がいうその意味をいまいち理解できていなかった。

「つまり・・・携帯電話を切った直後、もしくは携帯電話で話ししながら事故に遭ったのではないかと思われます」

 わたしの背筋に、凍てつくような寒気が走っていった。

(わ、わたしの電話では・・・)

 わたしの両肩にずしりとおもしでも乗せられたような、手首に手錠でも嵌められたような罪悪感が次々とわたしを襲ってきた。

 わたしは警察が帰った後もしばらく放心状態に落ちていた。律子はベッドの中で声を出さずに泣いていた。小刻みに震える布団が、わたしをそう思わせた。

 わたしはいい出せなかった。律子に本当のことをいわなければいけないのに、わたしはまだその勇気を持つことができなかった。

(わたしのせい・・・)だと。

 どのくらい時間が過ぎただろうか。途方に暮れて時間をも忘れてしまっていた時だった。病室の外が何やら騒がしくなっていた。わたしはそれが気になって仕方がなく、いてもたってもいられなくなり思わず廊下に飛び出してしまった。わたしはまったく状況が掴めずにいたので、走り過ぎる看護婦さんの腕を無理矢理に引きとめた。

 看護婦さんはわたしの手を睨みながらも「双子ちゃんの隣で寝ていた新生児の容体が急変したんです」と丁寧に会釈をしながらわたしの手を振り解き、ナースステーションに消えていった。

「双子の隣って・・・」

 その双子とは当然、わたしの孫たちだ。

 わたしは慌てて新生児室のガラス越しに律子の子たちを確認しに向かった。そこではすやすやと眠る双子が、それぞれのベッドの中で目を閉じていた。わたしはそれを見てホッと一安心していたが、さっき看護婦さんがいった通り隣のベビーベッドは空になっていた。タオルケットの中央の窪みが、ついさっきまでそこに寝ていたであろう赤ちゃんの姿を生々しく象っていたのだった。

 その時だった。産科の病棟に悲鳴が轟いたのだった。わたしはすぐ後ろのベンチに腰を降ろして、こう思った。

(亡くなったのね)と。

 あの悲鳴の主は多分、亡くなった赤ちゃんのママなのだ。わたしはふと一成さんのことも併せて思い出し、皮肉なものだと唇を噛んでいた。やっとの思いで産んだ子供が、直後に命を落とす。その隣には双子の赤ん坊が何も知らず眠っているのだ。しかもその双子の父親は、それを見ずに死んでしまった。こんな皮肉なことがあるのだろうか。

 わたしの隣にひとりの男性が、ドスン、と座ってきた。そして頭を抱え、その場で蹲るように小さくなってしまった。

 わたしが律子の病室に戻ろうと立ち上がった時、その男性もわたしと同時にゾロッと立上がった。そして新生児室のガラスにへばりつき、視線を降ろしていた。その視線の先は空のベビーベッドだ。

 わたしはそっとその場から立ち去ったのだが、その直後、わたしの背後で割れるような鳴き声が聞こえてきたのだった。

 律子はまだ布団を被ったままだった。いい加減告げなければいけないと思っていたわたしは、律子のベッドの脇に立った。そして「り、りつこ」と声を掛けたのだが、耳を澄ますと律子の寝息が聞こえてきたのだった。

 布団からはみ出していた律子の寝顔は、疲れきった表情をしていた。

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