楓の日記 その二十の四
楓の日記 その二十の四
変な胸騒ぎが私の胸を過ぎっていった。思うより先に動いていた私の足は自然とおばあちゃんの家に向かって速度を上げていた。
桜の樹を急カーブで曲がり、残りの直線を全速力で走り抜いたのだが、その足は玄関の前でピタリと動きを止めてしまった。
「・・・」
胸に障る違和感。中に入ってもいないのに、私の足はそれを拒んでいるようだった。
「おばあちゃん・・・」
そんな違和感なんかよりも、やはりおばあちゃんが気になった。私はおもいっきりかぶりを振り、すべての思いを、すべての違和感を振り払ってから玄関の戸を引いた。
「大丈夫?おばあちゃん」
私の不安をよそに、おばあちゃんは炬燵の前で膝を折りこちらを向いてニコっと微笑んだのだった。
「倒れたと思って、びっくりしちゃったよ」私もおばあちゃんの前に膝をついた。「具合悪いの?顔色悪いよ」
「ごめんね、まだご飯支度してないのよ・・・何か疲れちゃったのかな、あたし」といっておばあちゃんは額に手のひらを当てた。
「そうだよ、疲れてるんだから無理しなくていいよおばあちゃん。今日は私が作るから・・・」
私がそういって立上り、台所に向かおうとすると、
「そうかい、悪いねえ。それじゃ今晩は楓の家でご飯食べましょうか」
あたしは耳を疑うように振り返り「うちで?」と首を傾げると、おばあちゃんは少しだけ間を置いてから、
「その方が律子とも一緒に食べれるかなって思ったから」といい終わった後に視線を逸らしたのだった。
私はさっきの違和感とは違う、また別の違和感を覚えていたのだ。おばあちゃんの口調もそうだけど、この家に入った時から何とはわからないが、わずかな空気の濃さというか、微妙な匂いの違いみたいなものを感じていた。
「でも、お仏壇はここにあるんだよ」と私が隣りの和室に目を向けると、おばあちゃんは、それもそうだね、と笑ったのだった。
今日の晩ご飯は時間もなかったので、冷蔵庫に入っていた魚を焼き、お味噌汁を作った。おばあちゃんはそれでも足りないと思ったのか、私の隣で大量のサラダを作っていた。
「いただきまーす。もうお腹ぺこぺこだよ」
「ほーんと、おばあちゃんもぺっこぺこ」
おばあちゃんの笑顔を見たのは、久し振りだなあと思った。
いつもは見ないTVを今日はつけて食事をした。珍しくおばあちゃんがつけたのだ。そんな中おばあちゃんが「楓もお料理上手になったねえ、本当に美味しいわ」
「ホントにーありがとね。でも、これからもっともっと上手になるからね」
それを聞いたおばあちゃんの表情は淋しいものに変わっていった。
「楓、本当にいいのかい、おばあちゃんと一緒に暮さないかい?」
私は一度俯いたが、笑顔でこう答えた。
「大丈夫だよ。こう見えて私は強いんだから」といい、ピースサインを作ったのだった。
夕食も終わりに近づくと、おばあちゃんがお茶を淹れてくれた。私はまだ高校生だけど、日本茶が大好きだった。特にご飯の後のお番茶は最高だ。
でも、今の私はその余韻に浸っていれるほどの余裕はなかった。何故なら、今日こそおばあちゃんに訊ねなければいけないことがあるからだった。
「ねえ、おばあちゃん」
私は少し温くなった湯呑み茶碗を静かに置いた。おばあちゃんはすぐに返事はせず、一口だけお茶を啜ってから「ん?」と眉を動かした。
「私にいいたいこと、あったよね」
「そうだったね」とおばあちゃんも湯呑みを両手で置いた。
「おばあちゃん、本当にごめんなさい・・・・・・あんな勝手なことして」
首をゆっくりと振ってから「もういいのよ。心配してただけだから、楓が無事ならそれだけでいいんだよ」と、いい終わった後に頷いていた。
「ありがと・・・でもひとつだけ訊いてもいいかな」
おばあちゃんは小さく息を吐いてから「今日はよく訊かれる日だこと」とぼそっと呟いた。私はそれに「えっ」と訊き返したが、おばあちゃんは「いやいや・・・」と手刀を横に振ったのだった。
「ママが函館に移ってすぐ、私に電話くれたよね。その時おばあちゃんがいったこと覚えてる?」
おばあちゃんはまったく反応を見せなかったので、私は構わずに続けた。
「その時ね、おばあちゃん、どこにいるの楓っていったんだよ。私の家に電話しておいてさ」
相変わらずの無反応に多少のいらつきを覚えた私の語気は厳しいものになっていた。
「どうして、そんなこといったの?その時、病院でなんかあったの」
今まで反応を見せなかったおばあちゃんが、私の顔に向かって視線を上げた。
「そうだね、ホントだね」という言葉の後に、聞こえるか聞こえないかの声で「ホント変だよね」と薄く笑いながら付け加えた。
「・・・見たのよ」
「えっ?何を」おばあちゃんの口元ばかり見ていた私は、虚を突かれたように訊き返した。「いや、誰を」と。
「もうひとりの楓を・・・だよ」
開いた口が塞がらないとはこのことなんだと、後で思った。驚きが大きいからではなく、それに返す言葉が見つからないからだと実感していた。
「目も、鼻も、口もね。それに髪型までもそっくりな女の子が、あたしの目の前に現れたんだよ」
「そ、それは誰・・・」という言葉はすぐに遮られてしまった。
「唯一違うのは、ホクロだった。楓にはないホクロが・・・あったのよ。ここにね」といいながら顎の右下の辺りを触れていた。おばあちゃんのいう通り、私の顎にはホクロはなかったが、私もつられて同じ場所を触っていた。
「その子は誰なの一体?おばあちゃんの知ってる人なの」
おもいきって訊いたのだが、おばあちゃんはそれには答えずにむくっと立上り、すでに暗くなっていた窓の外に顔を向けた。
「お、おばあちゃん・・・」
私が言葉を詰まらせると、おばあちゃんは私の方に振り返り、
「あなたたちは・・・悪くないのよ」
目尻を手の甲で拭ったおばあちゃんの表情を見た私の肩は、武者震いのように震えていた。
(な、何この震えは)
一線を感じていた。越えてはならない一線。私は・・・迷っていた。
私が自ら選び進んできた道。おばあちゃんはその所々で私に選択肢という分かれ道を見せていた。それでもいいと答えに向かって、真実に向かって直進してきたのだが、ここが最後の分かれ道になるのだと、体が教えてくれていた。
知って新たな道を選ぶのもいいし、知らずに今までと同じ生活を続けるのもひとつの方法なのだと思った。おばあちゃんの反応を見る限り、私にとっては良い方向ではないような気がしてならない。
徐々に保守的な考えに流されていく中で、私はあることを思い出したのだった。
(今までの生活なんて・・・もう送れない)と、(ママが亡くなって独りになった私には、今まで通りの生活なんて取り戻せない)のだと。
新たな自分。新たな生活。新たな道が目の前に一本通ったような気がした。私は気が付くと、顔を上げていた。そして、こういったのだった。
「どういう意味?」と。
私が前に進むことを決めたひと言だった。




