楓の日記 その二十の二
楓の日記 その二十の二
告別式も無事に終わり私はひとり、遺族控え室にいた。今日久々に自宅に帰るので荷物をまとめなければいけないのだが、そんな気力は起きそうにない。
私はひとり膝を抱え、麻巳子がさっきいった言葉を反芻していた。
「いたのよ。楓が・・・もうひとり」
どういう風に解釈すればいいのか、どういう角度から理解すればいいのか、今の私には到底無理と思えた。何度か見間違われたことはあったが、実際に会ったわけではないので想像するにしても偶像程度のものとしか思っていなかったのだ。私がもう一人いたと、いきなりいわれても何と答えていいかわかるはずがない。
麻巳子は、曇った表情で立ち去ろうとする私を呼び止めたが、私は出来る限りの笑顔を作って「ごめん、一人にしてくれないかな」と告げた。さすがの麻巳子もそれを聞いては、私を引き止めることはできなかったのだ。
おばあちゃんが控室にやってきた。いつまでも支度をしない私を見て「くよくよしててもしょうがないんだから、元気を出しなさいよ」といったが私の内心とは少し食い違っていたので、反論はせずにいうことを聞いた。
家まではお隣のゲンさんが車に乗せてくれた。いくら小さな町だからといって、今は歩く気分になれなかったので正直助かったと思った。後部座席からあの島を見ていた。そんなに時間は経っていないのに、懐かしさを感じていた。
おばあちゃんはまだ、あの日のことを訊いてきていない。何故私があの島にいたのか、ママの入院している病院にいておばあちゃんより先に訃報を知ったこと。お葬式の準備とかで忙しかったせいかもしれないが、おばあちゃんの私に対する態度はいたって普通なのである。
私は助手席のおばあちゃんに視線を移した。
「おばあちゃん・・・」
少し間をおいて「ん?どうしたの」と首を半分だけ回していった。
「ごめんね・・・」
また少しだけ間をおいてから「こうなることが決まっていたんだよ。きっとね」
「でも・・・」と私がいいかけると、おばあちゃんが今度は腰を回して半身なり私の方を向いていった。
「あたしも悪かったんだよ。あのね・・・」といったところでおばあちゃんは口を噤み俯いてしまった。そして、一度目を閉じてから再び私を見て「あとでゆっくりとね」と微笑んだのだった。
「うん」としかいえなかった私。そういってから、もう一度あの島に視線を戻し、あの日のことを思い出していた。函館での出来事だ。花火大会の最中にりんご飴屋の店主に間違われたことや病院の廊下で車イスのおばさんにも間違われたこと。その二人がいっていた人物というのは、多分同一人物なのだ。単なる偶然で処理しようと気持ちを整理したのだが、私の心のどこかで引っ掛かるものがあったらしい。
極めつけは麻巳子の言葉だった。
「いたのよ。楓が・・・もうひとり」
信頼できる麻巳子がいうのだから、なんの根拠も持っていない私がそれを否定できるわけがない。麻巳子がいうくらいだから、相当似ているのだろう。私は鼻から息をゆっくりと抜いた。
「今日は涼しくて過ごしやすい日になったねえ」とハンドルを握るゲンさんがおばあちゃんに話し掛けると、おばあちゃんも窓越しに外を眺め「ホントよね。ほらあの子たちだって涼しそうな格好してるわ。麦わら帽子なんて珍しいわね」とホホホと笑った。
ゲンさんも「昔はみーんなかぶったもんだけどなあ」とにこやかにいっていた。
車は坂道に差しかかった。もう少し登るとあの桜の樹が見えてくるはずだ。今年はママのこともあって、桜を見ることができなかったけど、毎年の満開の光景を記憶していたのでそれだけでも十分だった。
ゲンさんはその桜の樹の前で車を停めた。
「楓、荷物置いたらすぐにおいでよ。久し振りにばあちゃんの手料理をご馳走するからね」と腕まくりをする仕草をして見せた。
「お風呂入ってきてもいい」
「いいよ、いいよ。ゆっくり入っておいで」と目尻に皺を作っていった。
車を降り、ゲンさんにお礼をいうと「元気だすんだよ」と励まされた私。ここ数日で何回この言葉をいわれただろうか。たしかにママが亡くなってショックなのは事実だけど、いつまでもメソメソしているわけにはいかないのだ。天国のママもきっとそう思っているに違いない。私はママへの想いを閉じ込めるように、胸を二度叩いたのだった。
「一緒に暮さないかい」と昨日おばあちゃんにいわれていた。「何かと不便だろうし、おばあちゃんも楓が一人だと心配だから」と付け加えたが、私はそれを丁重に断っていた。心配してくれるおばあちゃんの気持ちも有難いし、もちろん嬉しい。でもママと過ごしたあの家を出ることだけはしたくなかった。時間がそれらを洗い流してくれるかもしれないが、それはそれで自然の成り行きなのだろうから拒むなにものでもない。
私は玄関の前に立ち、我が家の表札を見上げた。木村律子の下に私の名前があるが、その間にもう一行分だけ名前が書けるスペースが余っていた。ママが生前にいっていた、おばあちゃんと同居した時のために空けていたのだろう。会ってはいつも口げんかばかりしていた二人だけど、お互いがお互いを思いやり、心配しているくせに素直になれないママとおばあちゃん。私はそんな親子のやり取りを思い出し、ニヤッとしていた。
いつも通りに鍵を開け、いつも通りに「ただいまー」といった。いつもなら「おかえり楓」と奥の寝室からママの声が聞こえたものだが、今は当然聞こえてこない。これから毎日こうなんだろうな、と思うと淋しさが込み上げてきたがそれをグッと飲みこんで私は靴を脱ぎ始めた。
自分の部屋に荷物を放り投げ、急ぎ足でお風呂に向かった。お風呂まで行くには居間と台所を通っていかなくちゃいけない。ママとの想い出が詰まったこの家は、どこを見てもどこを取ってもママの生活感を窺わせる。私は目を伏せてお風呂まで一気に通り抜けていった。
立ち昇る湯気を見つめていた瞳をゆっくりと閉じた。自然に息をふ~と吐いていた。こんなにゆっくりとお風呂に浸かったのは久し振りのことだった。麻巳子と函館の宿に泊まった時だって、温泉付きの旅館だったが、やはりママのことが心配でそんな余裕は持てなかったから。どんな大浴場だったかも覚えていないほどだった。
お風呂から上がって冷蔵庫を開けた。奇麗に整頓された冷蔵庫内を見て「ここは違うね」と呟いていた。いつものママならこんな几帳面に片付けられていることはまずなかったから。これはおばあちゃんの妹の昌枝おばさんが以前にご飯支度をしに来てくれた時のものだと思った。
冷蔵庫からウーロン茶の缶を取り出し、居間のソファに腰掛け、缶を開けた。飲みながら見上げた時計はもう「四時十五分」を指していた。
「晩ご飯にはまだ早いよね」とひとり言を呟き、TVのリモコンを手に取った。
これからは何をするのも独りなんだな、とまた実感していた。ママがいた時に感じなかった家の広さも、三人掛けのソファの長さも、食卓テーブルのイスの多さも、今になって初めて気付いたような気がした。この家に住むようになってもう何年も経つというのに今さらこんなことを思うなんて、淋しさよりも虚しさの方が急に膨張してくるような感覚に襲われていた。
ウーロン茶を置き、リモコンも置いた。私は誰もいない独りぼっちの家の中で、両手で顔を覆い声を上げて泣いた。




