楓の日記 その十七の三
楓の日記 その十七の三
エレベーターを降りた私たちは、まず始めに案内看板を探した。さいわい看板はエレベーターを降りた向かい側の壁に貼りつけてあり、そこに各病室の番号が記されていたので助かった。
「四〇八はこっちだね」といった麻巳子は颯爽と向きを変え歩き出した。私もそれに遅れを取らぬように着いていった。エレベーターを降りて右に曲がった私たちは、正面に大きなTVを発見した。そこには患者さんたちやお見舞いの人たちが寛ぐスペースになっており、壁一面のガラスから真っ白い陽光が惜しげもなく差し込んだとても明るい場所だった。
「あそこの左側だね」と麻巳子は歩きながら指を差した。ちょうど角にはナースステーションがあり、そこを左折するということだ。歩くスピードの速い麻巳子との距離を縮めるように、私は小走りしていた。その直後だった。突然角を曲がってきた車椅子の患者さんと衝突してしまったのだ。
「大丈夫?楓」と麻巳子が心配そうな表情を浮かべて屈んだ。私は右の膝を摩りながら「平気だよ」と苦笑いを返した。
「また、あんたかい。気を付けなさいよね。いいかげん」と車椅子に乗った小太りのおばさんが訝しげな表情でいった。
私は「えっ」と顔を上げたのだが、すでに車椅子のおばさんは通り過ぎていってしまった後だった。
「また、っていったよね、あのおばさん」
私は中腰のまま首だけを直角に回し、そのおばさんの後ろ姿を見ていた。
「そんなにいるのかな?似てる人って」
麻巳子のひとり言のように呟いた言葉を聞き、私は昨晩の花火大会のことを思い出していた。
「気を取り直して行こうよ」と麻巳子が姿勢を正していったので、私もひとつ頷き、また麻巳子の背中を追って歩いた。
ママの部屋はそんなに遠くなく、歩き出してすぐに麻巳子はその足を止めていた。
「ここだね」
私はそれを聞いて、横にずれるように顔を覗かせてママの名前が書いてある室名札を確認した。
(やっとママに会える)
そう思ったら、止めることはできなかった。ママが大間を離れておよそ半月、時間にするとたった半月なのだが、私にとってのママと会えない時間は、いくら短くても尊ささえ感じてしまう。
私は衝動的に扉を引いていた。
「マ・・・」
ママといおうとした。ママと呼ぼうとした口が急にしぼんでしまった。何故なら部屋の中に看護師さんが立っていたからだった。私は居直るようにお辞儀をして、再び口を開いた。
「お世話になっております」と使い慣れない言葉も、ママの為ならきちんといえた。
それを聞いた看護師さんも丁寧なお辞儀で返してくれた。でもその表情は決して明るいものではなかった。それでも私は気になってしかたがないママのことを間を置かずに訊ねていた。
「母はいますか?」
でもその問いに返ってきた言葉は、私が想像していたものではなかったのだった。片手にバインダーを抱えた看護師さんは、私の方に向きを直してから、重たそうに唇を動かした。
「アイシーユーに移ったばかりです」意味がわからない私たちは訊き返そうとしたが、看護師さんはまたすぐに続けていった。「ご家族の方ですよね」
私は当然といわんばかりに頷いて見せた。
それを見た看護師さんは「それでは、こちらへ」といいながら、私たちをとある個室へと案内した。そこはしーんとした部屋だった。白くて小じんまりした四人掛けのテーブルが中央にあり、周囲には余計な物は一切なく、壁には「ICUのルール」だとか「手洗いの励行」などのポスターが二、三枚貼ってある程度の殺風景な部屋だった。看護師さんは私たちをそこへ案内した後「少々お待ちください」といい残し、部屋から出て行ったのだった。
「なんだろうね」
麻巳子が緊張した面持ちで私に肩を寄せた。
私の胸はもう張り裂けてしまいそうになっていたが、それを麻巳子に覚られないよう我慢するのに精一杯だった。だって私のそれを麻巳子が知ったら余計に心配させてしまうから。
「ICUって何だろうね?」
麻巳子はまた、コソっといった。私はそれには答えなかった。
「楓ママ、お部屋移ったんだね。よくなったのかな病気」
私はそうは思っていなかった。多分、その真逆なんだろうと思っていた。そしてこれからここにやって来るのは、白衣を着たお医者さんでママの病状を私たちに告げるのだろう。そしてその後、私たちにはとてつもない衝撃が襲ってくるはずだ。縁起でもないとは、私も思っている。そんなはずはないと・・・私も思いたい。でもどうしても、私の想像は良い方向へとは進んでくれないのである。
「大丈夫?楓」
やっぱり麻巳子は優しいこだと思った。常に私のことを気にかけてくれている。私は麻巳子の瞳を見つめ「うん、大丈夫だよ」と唇の端を持ち上げて見せた。
覚悟はすでに・・・できていた。
この個室に入る前から、この病院の前でタクシーを降りた時から、ママへのお土産を選んでいる最中だって、昨日の儚い花火を見ている時だって、そして大間からフェリーに乗り込んだ時すでに、覚悟なんてものはとうに出来ていたのだ。こうなることも半ば察していたような気がする。ママの容体は決して良くないんだと思っていた。でなければ、わざわざ函館の病院になんて移る必要がない。
しかも、病名は「乳がん」だとおばあちゃんはいっていた。それは何年か前に片方のおっぱいの手術をママは受けていたのだ。それがまた入院することになったのだから、今度のは軽くはないと思っていた。
私は、大きく息を吸った。
でも、それでもママがまた手術を受ける程度にしか想像はしていなかった。そんなママの命に関わるような想像は、断じてしていなかった。
そうじゃないかもしれない。良い報告かもしれない。案外、退院の目途がつき、今日はたまたまおばあちゃんがいなかったから、代わりに私が聞くのだと。その楽観的な予想は、数分後に裏切られることになることの知らずに私は体を硬直させながら、ここに向かっている人を待っていた。自分の鼓動を感じながら。
そして数分後、私たちが入ってきたドアとは反対のドアがゆっくりと開き、そこからさっきの看護師さんを先頭に、黒縁の眼鏡を掛けた白衣の男性が入ってきたのだった。上着のポケットに手を入れながら。
それを見た私の緊張感は一気に頂点へと達した。
「先生、こちら木村律子さんのご家族の方です」という言葉を聞き、この眼鏡の男性がママの担当医なんだと私は確信した。
先生は左手だけをポケットから出し、眼鏡を直す仕草をしながら私たちに向かって「ご苦労さまです」といって目の前の椅子を引き、腰をゆっくりと降ろした。看護師さんは、その斜め後ろに立ち手を前に組んで先生の方に視線を向けている。
私の耳はさっきからあまりの緊張感からくるキーンという耳鳴りで支配されていた。私の向かい側に座った先生は、手にしたカルテを開こうともせずに口を開いたのだった。
「お母様の状態は、極めて重篤です」
さっき発した時よりも、はっきりと大きな声でいった。そしていった後、少しだけ視線を下げたのだった。
「手術するんですか?」
先生はゆっくりと首を横に振った。
「手術しなくてもいいんですね?」
私は先生のその言葉を勘違いしたらしく、良い方向へと勝手に解釈していた。手術しなくても完治するのだと。
「良くなりそうなんですね。抗がん剤治療ってやつですよね。手術するよりはましですよね」
いつもより口数が多くなっていた。
「良かったあ。なんかホッとしました」
顔が異常に火照っているように感じた。
「で、退院はいつごろなんですか?もしかして、もう帰ってもいいっていうんじゃないですよね・・・」
ペラペラと喋り続ける私の口を、麻巳子の言葉が遮った。
「あと・・・どれくらいなんですか」
私は麻巳子が急に何をいい出したかと思い、首をグイッと回した。
「そんなに・・・悪いんですか」と続けた麻巳子の瞳はすでに涙で濡れていた。
私は麻巳子の涙を見て、急に現実に引き戻されたような気がした。一瞬だけ先生の発言から逃避してしまった私の意識。麻巳子はそれらを毅然と訊き、受け止めていたのだ。
「こんやがやまでしょう」
先生の声は低く、そして重かった。
先生と看護師さんが出ていったあとの部屋は、まるで墓場にでもいるかのようだった。私も麻巳子も発する言葉はない。さっき先生がいった言葉が頭の中で何度も何度も反芻されていた。
ママの笑顔が大好きだった。
帰りが遅いと怒るママの吊りあがった眉毛も、
宿題したのかと偉そうにいう姿も、
早くご飯食べちゃいなよというママの思いやりも、
今日は寒いねえといいながら無理矢理コタツに入ってきて私にくっつこうとするママの甘えん坊なところも、
咥えタバコでお米を研ぐ後ろ姿も、
だらしないパジャマからキラキラしたドレスに着替えるママも、
アケミさんに呼ばれて3オクターブくらい上がるママの声も、
夜遅く帰ってきて寝ている私の額にキスをするママの匂いも、
おばあちゃんが淋しがるよといつも心配しているところも、
酔っぱらって私に八つ当たりしてくるママも、
そして私の為に一生懸命毎日夜遅くまで働いてくれているママも、
いなくなってしまうということなのか。私の傍から。私の大好きな、大切なママはもう帰ってこないというのか。
私は顔を上げ、目を開けた。息をすうーとゆっくりと吐きだした。まだ実感が湧かない私の隣では、麻巳子が号泣していたのだった。




