楓の日記 その十六
楓の日記 その十六
八月一日水曜日 天候 曇のち晴
今やっと宿につきました。今日は偶然函館の花火大会だったので、麻巳子と一緒に見てきました。そのお陰で足が棒のようで、もうふらふらです。これからお風呂に入ってきます。麻巳子は先に行っちゃいました。麻巳子はああ見えてせっかちなもので。
お風呂から上がったらまた続きを書こうと思います。でも麻巳子がいると、日記をつけていることがばれてしまうので、タイミングを計りたいと思います。それでは・・・。
(夜十一時〇五分過ぎ)
麻巳子が寝ました。思ったよりも早かったわ。きっと私に気疲れしたのね。ありがとね、麻巳子。
隣で眠る麻巳子の寝顔はかわいくてたまりません。なんか、もにゃもにゃ喋ってます。
早く書かないと麻巳子が起きちゃいそうなので、本題に入ります。
私は本当に来てしまいました。いつもは対岸からしか眺めることしかできなかった島。いや神社の宮司さんにいわせれば「希望の島」だったよね。どちらにしても、夢にまで見た場所に私は来ました。
私たちが乗ったのは、津軽海峡フェリーという大間から函館を結ぶ船だった。ママもこれに乗って渡ったんだなと思うと、淋しさが込み上げてきました。見る見るうちに島は近付いてくる。こんなに近いのかと思うほど、でも島に近づいたフェリーはある場所から陸とは平行に航路をとり、高く聳える山の外側をゆっくりと回っていった。
麻巳子は船酔いをしたらしく、下の大広間で横になる、といって降りていってしまった。こんなに風が気持ちいいのにもったいないね。
山のちょうど裏側に差しかかると、前方に街らしき景色が拡がって見えたの。左を見ても、右を見ても建物がたくさん建っているように見えた。こんな景色は大間では見ることはできない。こんなところにママがいると思うと、無事に探し出せるのか急に不安になりました。
フェリーを降りた麻巳子はふらふらした足取りだったので、少しお茶でもして休むことにした。フェリーターミナルでタクシーを拾い「函館駅まで」というと、運転手さんが今日は花火大会があると教えてくれたの。麻巳子は青ざめた顔をしながらも、それを聞いて「ラッキー」と親指を立てて見せたのだった。
駅前でタクシーを降り、私はきょろきょろと辺りを見回した。すると駅の向かいにコーヒーショップがあるではないか、それもやはり大間ではお眼にかかれない大手チェーン店だ。あたしは「あそこにしよう」と麻巳子の腕を掴んでいった。
自動ドアが開いただけで漂うコーヒーの香り。麻巳子はそれだけで船酔いが吹っ飛んでしまったようです。一気に顔色が良くなった麻巳子は、コーヒーを啜りながら私にいった。
「今日は遅いから、病院へは明日行こうね。今晩花火大会だっていうしね」と少し悪びれた表情で麻巳子はいった。
「そうだね。明日は忙しそうだし、今晩は美味しい物でも食べようよ」
私たちは束の間の休日を味わうように盛り上がっていた。マグカップのコーヒーも半分くらいまで減った時、麻巳子は静かな口調に変わった。
「どう、まだ緊張してる?」とカップを両手で持ち、上目遣いでいった。
「う~ん、どうかな?今は大丈夫だよ。本当に麻巳子と小旅行に来ているみたいで、なんか楽しい」
「そう、それは良かった」といってカップをテーブルにコトンと置き「でもさ、ひとつだけ気になるんだよね」と置いたカップを見降ろしながら続けた。「楓、前にいってたよね。おばあちゃんから電話きて、どこにいるの、っていわれたってさ。楓の家に電話しておいてその言葉は変だよね。絶対に」
私もそのことについては、ずっと気になっていた。あの元気なおばあちゃんがママの看病で疲れたからといって出るような言葉でもない。
店内は、花火大会があるせいか若いカップル達で賑わっていた。私たちの席の横を騒がしく通り過ぎていく高校生たちもいる。麻巳子は私に顔を近づけ、その連中に聞こえないように声を殺していった。
「まさか、事件か何かに巻き込まれてるわけじゃないよね」
私の胸を急に襲ったざわざわ感。私は口調を強めて答えた。
「そんなこと、あるわけないよ」
「そうだけど・・・」
麻巳子は唇を尖らせた。
「ごめん、でも、そう思いたいの。わかって麻巳子」
麻巳子もそれを聞いて、ごめんね、と私に詫びたのだった。
俯きながら話をしていた私たちは、店の外が暗くなってきていたことにたった今気が付き、顔を同時に窓の外に向けた。
「マグカップもちょうど空になったし、少し外を歩いてみようよ」と麻巳子にいった。
麻巳子は、薄く笑って頷いた。
店から出ると、外はもっと暗く感じた。花火大会は7時45分からだとさっき店内に貼ってあったポスターに書いてあったので、それまでにはまだ多少時間がありそうだ。
「ねえ楓、これに乗ってみたくない?」と麻巳子が指さしたのは、ちょうど目の前を通っていた路面電車だった。
「うん、乗ろう乗ろう」
私は足取りも軽やかに麻巳子の後をついていった。道路の真ん中を堂々と走る路面電車に乗ったのも初めてだったが、麻巳子と歩いた函館の街は見る物すべてに心を奪われていた。山肌を傾斜に沿って昇っていくロープウェーも感動した。街並みを暖かく彩るガス灯や電車を降りた後に歩いた石畳の歩道。イルミネーションで飾られた街路樹の下も潜った。私はいつの間にか函館という街に魅了されていた。
「こんな街に住めたらいいのに」
私は自然とそんな言葉を呟いていた。きょろきょろしながら歩く私は、いきなり立ち止った麻巳子と衝突してしまった。
「ごめんね、麻巳子」
彼女はそれには答えず、ガイドブックに当てていた視線を突然横に向けた。
「ここにしよう」
私は驚きながらも麻巳子と同様に横を向いた。するとそこにはお洒落な洋食屋さんがあるではないか、しかもそのお洒落な外観を見ただけで私のお腹はぐうーっと鳴ってしまったのだった。
「やっぱりね。楓お嬢様はそろそろかなって思ってたんだよね」と私にウィンクを飛ばした。
私は、あはは、と笑ってごまかした。
「まず函館に来たら、異文化を感じないとね」とかわいさしく首を傾け、麻巳子は店の扉を開き中に入って行ったのだった。お店は予約のお客さんでいっぱいだったが、運良く一席だけ空いていたので私たちはそこへ案内された。
「あいにく花火は見れませんが・・・」と小奇麗なウェイトレスさんが申し訳なさそうにいったが、麻巳子は笑顔で「飛び込みで座れただけでも良かったです」と応えていた。
「今日は楽しもうね」といって乾杯した。中身はオレンジジュースだったが「大人になったらまた来ようね。その時はワインなんてどうかな」と麻巳子は舌をチロっと出して笑った。
私はそれに、うんうん、と頷いた。
暗めの店内。テーブルの上のキャンドルがいい雰囲気を醸し出している。
「これ見ると思い出すんだよね」
「ローソクのこと?」
「うん、ウチっていわゆる母子家庭でしょ。昔からそんなに裕福じゃなかったからから、クリスマスとか誕生日ってあんまり好きじゃなかったんだよね。ママは奮発してケーキを買ってきてくれんるんだけど、少ない時はショートケーキ1個の時もあったの。あれはたしか小学校三年生くらいだったかな、今じゃそんなこと全然考えないけど、小さい時ってそういうの結構恥ずかしいっていうか、友達にいえなくて嫌だったっていうか。特に誕生日がね」
「どうして?」
麻巳子はいいながら、手にしたフォークで前菜のサーモンのマリネを口まで運んだ。
「今までに一度しかなかったんだけどね、そういうことは」
私は口を噤んでしまった。でも麻巳子はそれに構うことなく「で?」と促してきた。私は一度小さく頷いてから続きを話した。
「その年もショートケーキだったの。イチゴのね。それは3年間くらい続いたから、もう慣れてしまって平気だったんだけど、それに立っていたローソクがちょっとね・・・」
「何?」
「う、うん。お仏壇のものだったの」
麻巳子は依然とサーモンをフォークとナイフで器用に畳み、口に運んでいる。麻巳子の皿にはサーモンが残り1枚になっていた。
「さすがにショックだったんだね。その後、泣いてママに突っかかっていったのを覚えてるの。でもママはそれを笑って聞いていたわ。私を抱きしめながらね」
私がいい終わったと同じくらいに、麻巳子はフォークを脇に敷いてあるナプキンの上に戻し「いいママじゃない」とニコっと笑った。
私は目を潤ませながらも、首を縦に動かした。
「そんないいママだもん、病気なんてすぐによくなるよ。きっと」
麻巳子も目を潤ませていた。
「明日、お礼をいおうと思ってるの」
「いいじゃない」
麻巳子の前の皿が取替えられた。そして小奇麗なウェイトレスさんに空になったグラスを見せ、オレンジジュースをおかわりした。
急な来店だったはずなのに次々と運ばれてくる料理は、素晴らしいものばかりだった。メインディッシュをいただく頃には、すでに満腹感が二人を襲っていた。
「なんか眠くなってきたね」と麻巳子が目を擦りながらいった。その時だった。麻巳子の言葉に重なるように花火の音が鳴り響いたのだった。
「麻巳子、寝てる場合じゃないよ。花火始まったよ」と伝えると、麻巳子は急いでデザートを平らげてしまったのだった。
外に出ると辺りは更に暗さを増していて、真っ黒い夜空には星屑がチリジリと輝いていた。歩道に立っているガス灯が余計奇麗に見えてしかたがなかった。
しきりに打ち上がる花火の音を私たちは探した。建物の隙間からそれが見えた時はさすがに足を止めてしまった。花火を見つけた麻巳子は私の手をとり「あっちだよ」といって駆けだした。しばらく走ると黒い海が見えてきた。そしてその海面には鮮やかな花火が映っているではないか。私はゆっくりと顔を上げた。
満天の星空の下一面に咲く花火たち。続々と打ち上げられている眩しいほどの花火は、一瞬でその輝きを散らせ、そしてまた別の花火が広がる。私はその儚いまでの花火を見て、涙を流した。
「どした楓?」
麻巳子は私の頬をつたう涙を指で拭ってくれた。
私はそっと視線を麻巳子に移していった。
「ママも見てるかなって思ってさ」
麻巳子はそれを聞き顔を上げた。そして小さく呟いた。
「きっと見てるよ」と。
何発打ち上がるのだろうか。花火は依然と夜空に咲き乱れている。麻巳子は「トイレに行ってくるね」といって、今この場にはいない。私は岸壁に腰を降ろしてぼんやりとママのことを思い出していた。どこか遠くから聞こえる女性のアナウンス。花火の紹介をしているようだ。後ろを振り向くと、人通りがまばらになっていて花火の終演が近いことを感じていた。
「麻巳子遅いなあ。トイレそんなに遠いのかなあ。私も一緒に行っておけばよかったな」とひとつため息を吐いた時、背後でカップルらしき男女が何やらヒソヒソと喋っているのが聞こえてきた。
「おい、見ろよ。さっきのりんご飴のコだぜ」という男性の言葉に、一緒にいる女性も小声で「ホントだ。りんご飴にうるさい女の子だったけっけ?」と笑いながら歩いていってしまった。
私はそれが私に向けられたものとは塵とも思わずに聞き流していると、今度は遠くから麻巳子が血相を変えて走ってきたのだった。
「かえで、はあはあ・・・ずっとここにいた・・・よね?はあはあ」と乱れる呼吸のあい間に漏れる言葉を、私は拾うように聞いた。
「どうしたの?一体」
「どうしたも、こうしたもないのよ」といって私の両肩を鷲掴みにしたのだった。
私は何がどうなっているのか全くわからなかったので、とりあえず麻巳子の言葉を待つことにした。乱れた呼吸を整えるように深呼吸を繰り返す麻巳子。その瞳は真っ赤に充血している。
「いたのよ」
「誰が?」
「もうひとり」
「だから誰が?」
「楓が・・・もうひとり」
その言葉は、ただ単に私のそっくりさんを見たというものではなく、私の中の潜在意識とでもいうか、魂そのものが揺さぶられるような衝撃を感じていた。
「わ、私がもうひとりって、何いってるの麻巳子。私はここにいたよ」
「そうだよね。で、でも確かに、確かにいたのよ。楓があそこに」
私の胸は、何かに締付けられるような苦しさを感じていた。手で胸を押さえた。鼓動がいつもの3倍くらいの速さに感じた。私もさっきの麻巳子のように深呼吸して整えようとした時、麻巳子が私の手首をぎゅっと掴み「確かめるよ」といって走り出したのだった。
(だめだよ、麻巳子・・・)
言葉にできない。目を瞑りたい。できることなら・・・逢いたくない。私は本能でそう思っていた。
(逢っちゃいけない)
全身を駆け巡る血液も、私の体を覆う皮膚も、すべてを敏感に感じ取る神経も、そして走らされている二本の足も、何もかもが拒否しているような感覚だった。麻巳子が見た私に似ているという、もうひとりの私を。
麻巳子が走っているスピードを突然緩めた。
「たしかこの辺だったよなあ」と背伸びをしたり、きょろきょろと辺りを見回したりしている。
「もういいんじゃないかな。帰ったんだよ、きっと。だから私たちもそろそろ帰ろうよ。麻巳子」
私は麻巳子の袖を引っ張って、何気に拒否していることをアピールしてみた。
「いや、まだそんなに遠くへは行ってないよ」
「もういいって麻巳子。ホテルに帰ろうよ。私疲れちゃったし、そうだほら、りんご飴でも買ってさ」
私たちはりんご飴屋の前に立っていた。
「おっかしいなあ、そんなに時間経ってないのになあ」と指をパチリと鳴らした。「まあ、しかたがないか。買ってくりんご飴」という私たちの会話に突然鉢巻をした男性が口を挟んできた。
「あんた、また来たのかい」と眉間に寄っている皺がかなり深い。
「またって・・・いえ、初めてですけど」
「とぼけてもらっちゃ困るんだよ。さっきのあんたのいいがかりのお陰で商売上がったりだぜ。また何かいちゃもんでもつけに来たのか」と腕をまくり、日焼けしたの太い腕を見せたのだった。
麻巳子はそれを聞いて、キッと表情を厳しくし「いいがかりはそっちの方でしょ。私たちは初めて来たのよ。何いってんのよ、まったく」と一歩すり寄っていった。
「そ、それじゃさっきの娘は誰だったんだよ。あんた本当に初めてなのかい」
店主は首を傾げながら、私の顔をしげしげと見つめた。
「やっぱりそうか」と呟き、麻巳子も私の顔を覗いた。「やっぱり見間違いじゃないんだよ」
「そんなわけ・・・ないよ」といった私の口調は極めて弱い。
「大将。この子に似てたのかしら、いちゃもんつけたっていうその子の顔は」
「ああ、似てるっていうレベルじゃないね。今だってまだ疑ってるくらいなんだからよ。姉妹、いや双子っていうより・・・同一人物だね、こりゃ」
店主は目玉に力を込め、まるで私を問い詰めるようにいった。
麻巳子はその問いに対し私の代わりに答えてくれた。
「それはないよ。だってこの子、ひとりっこだから」
それを聞いた店主は顎を触り、困った表情を作った。
「楓、これで間違いないね」と麻巳子はいい、もう一度私の手首を掴んで走り出した。「まだ近くにいるよ」といって。
かなり現実的になってきた、もうひとりの私。それを考えるとこめかみの辺りに窮屈さを感じるのだった。
「・・・ダメだよ」
この言葉は麻巳子には届いていない。
「行っちゃダメだよ」
依然と人ごみを掻きわける麻巳子。
「逢っちゃダメなんだよ、麻巳子っ」
私は無意識に叫んでいた。すれ違うカップルや手を繋いで歩く家族連れの人達が、一斉に私の方を振り向いた。
麻巳子は掴んでいた手首を離していた。
「ご、ごめん、今は無理だよ」
私は踵を返し、今来た方に向かって走り出した。まるでそれは運命に背くかのようだった。何度も何度も人にぶつかった。躓いて転びそうにもなった。赤信号を飛び出してクラクションも鳴らされた。全力で走った。出来る限り遠くへ行こうと、出来るだけ遠くに離れようと思った。
背後で聞こえる麻巳子の声。麻巳子は全力で私を追いかけてくれている。私はそれだけで安心できた。
(麻巳子、ごめんね。私・・・意気地なしで)
気が付くと目の前には、黒い海が揺れていた。辺りを見回したがさっきの岸壁とは場所が違うようだ。私はその場にしゃがみ込み、アスファルトに手をついた。すると突然目の前が急に明るくなった。私は少しだけ視線を上げた。
「あなたもわたしみたいだね」
視線の先には、海面に映る花火が妖しく揺れていた。




