美咲の日記 その13
美咲の日記 その13
7月16日(月) 天気・雨
あたしは昨日の夜から一睡もしていません。寝方を忘れてしまったかのように、人でも殺してしまったかのように、目が冴えてしかたがない。
昨日のあの出来事は何だったのか。どうしてあたしは逃げだしてしまったのか。あの尋常じゃない足の震えかたは何だったんだろうか。まるで体が拒絶しているような反応だった。
真由が先陣を切ってキムラリツコの病室の様子を窺ってきてくれた。行くと部屋のドアはもちろん閉められており、中の様子は見えなかったそうだ。でもキムラリツコの病室はちょうどTVとかがあるロビーのまん前だったそうで、真由はそこでTVを眺めているように時間を潰し、中から人が出てくるのを待っていたのだ。
「本当に気を遣わないで下さいね」と優しそうなおばあちゃんがドアを引きながら出てきた。そしてその後ろを続くようにしてあたしの両親が出てきたらしい。濃いグレーのスーツを着たお父さんと白いワンピースを着たお母さんだったと真由は後で教えてくれた。そんな格好をしている両親なんて久し振りだと思った。多分あたしの中学の卒業式以来ではないかと思い出した。
会話の詳しい内容までは聞き取れなかったと真由はいったが、何やら「よめいは」とか「かえでさんは」とか、あたしのお父さんが何度も何度も執拗に訊ねていたということだ。
真由はあたしの両親がエレベーターに乗ったことを確認し、そしてその後優しそうなおばあちゃんが財布を持って部屋から出てくるのを横目で確認してから、あたしの元に帰ってきたのだった。
「今だよ」とぜいぜいしながらいった真由は、あたしを立たせ、そして廊下に押出すように背中を押した。「美咲、408だからね」と言葉を捨ててコクっと頷き、鉄のドアを閉めてしまった。
あたしは押された勢いで向かい側の壁に手をつき、それから右に伸びる廊下の先に視線を飛ばした。唾を飲みこんだ。躊躇っても仕方がないのは重々承知している・・・つもりだ。でも足が動かない。自分の意志では動こうとしないのだ。あたしは下を向き白いスニーカーを履いている自分の足を見てみた。見る分にはわからないが、細かく震えている感覚が伝わってきていた。
もう一度廊下の向こう側を見た。腰の辺りの手摺を掴んだ。そしてそれを引っ張りながら少しずつ、ほんの少しずつ体を前に進めた。
そんな感じで病院の廊下を歩くものだから、何度も看護師さんに呼び止められた。「具合でも悪いの?」と、あたしはその度に腰に力を入れ自立し「何ともありません」と笑顔を見せたのだった。
412号室が目に入った。真由が「408」だと教えてくれたことを思い出した。409が無いとしたら、あと3つ。
ふと横を向くと大きなTVが見えた。真由がいっていたロビーまできていた。そこにはTVを観ながらくつろぐ患者さんやお見舞いにきた家族らしき人たちがたくさん座っていた。そこには自動販売機もあった。あたしは喉の渇きを思い出し、また唾を飲みこんだ。
喉の渇きを考えていたら、いつの間にか408号室の手前まできていた。あたしは胸を押さえた。手のひらには異常なほどの動悸を感じている。
(あの扉を、本当に開けてもいいのだろうか)
真由がさっきいった言葉を思い出していた。
「覚悟はできているのか」覚悟。あたしがどう思えば覚悟だといえるのか。「いいことかもしれないし、かなりショックなことかもしれない」と真由が両方を口にした。どちらになっても受け入れることができるかどうか、ということなのだろう。もちろんいいことでも多少の衝撃はあるだろうし、悪いことといっても今はさっぱり想像もつかないので、受け入れようがないと思った。
そんなことを一人で考えているとあたしの背中で声が聞こえた。
「何か、ご用ですか?」
あたしは意表を突かれたように振り返った。そこには缶のお茶を2本持った白髪まじりの優しそうなおばあちゃんが立っていた。
「いやあ、あのお」と返答に困るあたしは、顔を背けてしまった。
「どうして・・・ここに」
虚ろな声であたしに問いかけたおばあちゃん。
あたしは言葉を忘れた人のようにかぶりを振って、その場を立ち去ってしまった。
「どこにいくんだい・・・・・えで」とおばあちゃんがいった言葉を振り切るように、あたしは真由の待つ階段室まで走り抜いた。
すごい勢いで鉄のドアを開け、そのままの勢いで階段を降りるあたしを真由も全力で追い掛けてきた。途中何度も後ろから真由があたしを呼んだが、足がもつれそうになりながらも、あたしは一気に駆け降りた。気が付くと病院の前のバス停の元に座りこんでいた。
真由はあたしの背中にそっと手を置いた。
あたしは真由の顔を見上げた。茶色いスクリーンの屋根に雨がポツポツと落ち始めていたのだった。




