楓の日記 その十
楓の日記 その十
七月十四日土曜日 天候 雨
今日ママは予定通りに、大間の診療所から函館へと移っていった。普通の服を着て、普通に歩いて、普通に話して、普通に笑うママを見ていると、病気を患っているようには全然見えなかった。
私はフェリー乗り場まで見送りに行った。「私も行く」と訴えたがおばあちゃんが私の肩を抱き「着いたら検査とかで忙しいから、落ち着いたらおいでね」といって、薄く笑った。
私は「ママ」って叫んだ。ママはそれに気付いて、うんうん、と頷いて笑顔を作ったが、それがどこか淋しげに見えてしまって、私は歯を食いしばっていた。
俯いた私にママが声を張った。
「大丈夫だからねママは、楓もしっかりね」
自分のことで精一杯のはずなのに、自分の方が大変なのに、ママは私の目をしっかりと見つめて、大きく手を振っていた。体がダルいはずなのに。
ママを乗せたフェリーはゆっくりと函館に向かい、岸を離れた。私は今度、いつママに会えるのだろうか。そんな疑問に私は苛まれた。苦しかった。胸が締め付けられるような孤独という感情。私にはいつも、ママという存在がいたから、その当たり前の存在が手の届く範囲内にいないという現実。人生で初めて感じる虚無な感覚。
壁一面の大きなガラスの向こうにママを乗せたフェリーが見える。私とママを隔てるこのガラスがやけに厚く、透明なはずのガラスが突然歪んで見えたのだった。私は膝をついていた。自分で自分の肩を抱いた。小刻みに震える肩。自分のものでないような違和感。
やっぱり「行く」といえばよかった。止められたって、例え叱られたって「行く」といえばよかった。ガラスを拳で叩いていた。ママの笑顔が甦る。ママの咥えタバコも、ママがお化粧しているところも、ママが髪を乾かしているところもだ。ご飯を食べているママ。晩酌をしているママ。酔っぱらって帰ってきて、私の頬をすりすり撫でてくれたママ。飲み過ぎてトイレで蹲っているママ。携帯片手にお客さんと喧嘩しているママ。「楓は私に似て美人だねえ」と自分でいって自分で照れているママ。おばあちゃんのことを心配しているママ。私に平気な顔して手を振ってみせるママ。
涙は止まることを知らないように溢れだしてくる。
「ママ・・・ごめんね」
私は何ひとつもママにしてやれていないことに気が付いた。
「ママ、帰ってきてね。絶対だよ」
何ひとつ、親孝行というものを。
顔を上げた。フェリーは米粒よりも小さくなっていた。




