楓の日記 その五
楓の日記 その五
三月四日日曜日 天候 晴れ
毎週日曜日の晩ご飯は、いつもおばあちゃんのところでと決まっている。それはママが楽しようとして、昔思いついたものだった。でもママはそれを「おばあちゃんが淋しがるから」と上手い口実にした。
「楓、おばあちゃんのとこに先に行っててよ」と脱衣室の戸の隙間から聞こえてきたママの声。まだ髪も乾かしていない私は、このまま行ったら頭がしばれてガチガチに凍ってしまいそうだと思った。
「それと冷蔵庫の中のお刺身を持っていってね。隣のゲンさんからだって、ちゃんというのよ」と続けた。私はそれに空返事で答えながら、冷蔵庫の扉を開けた。
おばあちゃんが住む家は、坂を半分下ったところにある。モコモコのジャンパーを羽織り、玄関の戸を引いた。坂まで出ると遠くにあの島が見える。私は皿を持った手を大きく広げ深呼吸した。今日は寒くない夕暮れに気持ちの良い風が吹き抜けていた。髪は凍らなそうだなと思った。
あの島を眺めながら坂を下った。緩い坂だがところどころ雪が残っているので、慎重に足を進めた。坂を道なりに下っていくと、背の低い桜の樹が見えてくる。それがおばあちゃんの家の目印だった。春になると我が家はそこでよく花見をする。小さな樹だが花が見事に満開になるからだ。そしてその時に作ってくれるおばあちゃんの料理が、私は大好物だった。おばあちゃんの料理は、美味しくて暖かい。
その樹の下をクルっと回るように折れ曲がると、おばあちゃんの家が見えてくる。私とママの家よりも大きい二階建の家。ママはよくおばあちゃんに「一緒に暮らそう」と誘っているが、おばあちゃんが首を縦に振らないのだった。その理由は私にはわからないが、ママがその度に唇を噛むのを私は見逃していなかった。
玄関の前まで行くとその両脇に花壇がある。今は何も咲いていないが、それこそ暖かくなれば真っ赤な花を咲かすのだ。その後大きな実もつける。たしかおばあちゃんは「ハマナス」だといっていたような気がした。
おばあちゃんの家からも、あの島をはっきりと見ることができる。私は今日、意を決していた。訊こうと思っていた。あの事を。トイ、という言葉に隠された真相を。それこそママがやってくる前に。
戸に手を掛けて呼吸を整えた。鼻から吸い込んだ息を、すうーと静かに口から吐いた。目を開けた。そして戸を引いた。
「おばあちゃーん」といつもの声を出した。
「あら、いらっしゃい。ほら早く上がんなさい」と私に手を差し伸べ「ママは?」と。
「もう来ると思うよ。今ごろ髪乾かしてるんじゃないかな」
「それなら、私たちで先に食べちゃおうかね」とおばあちゃんは、かわいらしくおどけた。
居間に入り、炬燵に足を突っこみ、肩まで布団を被った。私はそれが温くて堪らなく大好きだった。そして、暖まりながらいつも茶箪笥の上のおじいちゃんの写真を見上げる。「おじいちゃんはいい男だったのよ」というおばあちゃんの自慢げな言葉を思い出す。おじいちゃんは私が生まれる前に亡くなってしまったそうだ。
おばあちゃんは私が渡したお刺身の皿からラップを剥がし、炬燵の真ん中に置いた。
「ねえ、おばあちゃん」
何気ない会話のように訊こうと思っていた。
「ん?お腹すいたのかい」
「うん、それもそうなんだけど、ひとつ訊いてもいいかな」
おばあちゃんは皿から剥がしたラップを手のひらでくるくると丸めながら、私を見降ろした。
「トイって知ってる?おばあちゃん」
昭和時代を匂わせるおばあちゃんの家の中で、唯一デジタルを感じさせる40インチの薄型テレビを見つめながら私は呟いた。
おばあちゃんは聞こえなかったのか、私が振り向いた時には台所に消えていってしまった。私はもう一度訊いた。「ねえ、おばあちゃん」といいかけたと同時に、
「知らないよ、何だいそれ?」と言葉を重ねた。
「知らないの?」
「ええ、知らないね」
本当に知らないのか。いや、そんなはずはないと思った。間違いなく、トイという言葉があの島の名前ならば、そんなことをおばあちゃんが知らないはずがない。私がもっと突っ込んで訊くしかないと思った。
「海の向こうの島の名前なんだってさ」
すぐに返事はなかったが、おばあちゃんは人数分の茶碗と箸を炬燵の上に置きながら「あれは、トイじゃなくて北海道でしょ」と諭すようにいった。
北海道なんてのは誰でも知っている。高校生の私が知らないとでも思っているのか。私はとぼけた感じで続けて訊ねた。「じゃ、トイって何?」と。
「聞き間違ったんじゃないのかい」とおばあちゃんは目尻を下げていった。
でも今日はいくら大好きなおばあちゃんでも、いくら優しい瞳で見られても、素直に信じることはできなかった。だって今のおばあちゃんは嘘をついているから。多分嘘というか、ママと同様にごまかしているのだ。何となくそう思っていた。
「お待たせー」ママがタイミングよく、頭に雪を乗っけたまま入ってきた。「外、すごく降ってきたよ」といいながら。
「雪くらいほろいなさいよー」とおばあちゃんはそそくさと立上り、ママに白い手ぬぐいを渡した。「遅かったねえ、待ってたんだよ。お腹すいたから先に食べちゃおうかっていってたんだよ、楓とさ」と普段ママには絶対にいわないようないい方をしたおばあちゃん。
私はその時確信した。
(この親子・・・グルだ)と。




