とける
まじめな青年というのは彼のような人物のことだろうと思う。
彼が休んだりだらけたりしている姿というものは、ほとんど見たことがない。
彼は自分自身の仕事にも熱心だし、それだけでなく、研究室内の細かな雑務に至るまでとても熱心だ。しかし、彼があまりに優秀すぎるせいで、この研究室の学生は彼に頼り過ぎてしまう傾向にある。
今日も彼は不足した化学薬品を購入してくれているし、冷凍庫内のサンプルの管理や実験動物の処理に関しても嫌がることなく黙々とこなしている。
しかし、たまには彼も休むべきだ。彼は機械ではない。あんなにいつもフル稼働していてはいつか疲れ果ててしまうだろう。私が言って、他のメンバーも彼を手伝うように言うべきだ。
特にここ数日は彼が一人で黙々と作業をしている場面を目撃することが多くなっていたし、私は余計に心配だった。
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境界線があるというのは安心が出来ることだ。
その一線からは他人が入ってこない絶対的な領域、それがあることは安心できる。今回の件でボクは余計にそのことを感じるようになった。
教授は、ボクがいつも研究室内の雑用を押し付けられていると思っていたのだろう。教授から研究室内に「彼の作業をもっと手伝うように」との伝言が伝えられた。
ボクは内心でかなりひやひやしていた。教授は勘違いしているのだ。ボクは押し付けられて雑用をしているのではない。好んで、いや必要に迫られて、研究室での仕事を一手に引き受けているのだ。
試薬の発注を牛耳り、実験動物のと体の出入りを調整する、これができて初めてボクの計画は順調に進む。なんとしてもボクの目的に他人の足が入ることは阻止しなければならなかった。
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彼は抜群に優秀だ。頭の回転も速い。しかし、それゆえに彼は孤独なままだった。
教授の提案を受けて、私も彼の作業を手伝おうと思った。常々彼には無理をさせていると私も感じていたのだから。私は先生の提案通りに彼の作業を手伝うことにした。彼は「そんないいですよ」なんて遠慮をしていたけれど。
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先輩が作業を手伝うと言い始めたときにはどうしようかと思った。
なんとしても先輩に作業を手伝わせてはならなかった。ボクはいったん家に帰るふりをして、深夜に研究室に戻り、死骸の処理を行い、帳簿と矛盾のないように調整した。
手伝うことなど何もない状態、疑う余地など何もない状態にしなくてはいけない。特に死骸の方はもし感づかれてしまったらアウトだ。何としても気づかれてはならない。
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実際に彼の作業を手伝おうと思うと、彼の仕事は丁寧、私のすることなどほとんどのこっていなかった。試薬の発注についてはもれなく記載された発注票が残されており、実験動物の処理についても、先日の実験分まできれいに袋にまとまっていて、作業はなにも残っていなかった。
彼は今日もなにを考えているのかわからない涼しい顔で雑務と実験に励んでいる。
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死骸を保管している低温室に先輩が足を踏み入れた時にはどうしようかと思った。
もし気がつかれたらどうしようか、背後から殴りかかるか、いや、校内でそんな凶行にはおよべない。ともかくなんとか平静を装ってやり過ごすしかなかった。
彼女が死骸の入っているビニール袋を凝視していた時には、本当に殴りかかってやろうかと思った。しかし、彼女はボクの死骸の処理の丁寧さに感心しただけらしい。ともかく助かったと言っていいだろう。
あの時、アイツを刺してしまったのは、魔が差したと言っていい。ちょっと気が立っていた。殺す気なんてさらさらなかった。でも、死んでしまったものはしょうがなかった。これからボクがまともな人生を送っていくためには、ボクはアイツを殺してなどいない、失踪したのだという事実を作り上げるよりほかになかった。
夏場に大きな死体は臭うし目立つから、のこぎりと解剖ばさみで細かく刻んだ。
骨もなるべく細かく砕いたが、砕ききれなかった。
小さくなった肉のパーツは解剖が終わったラットの腹の中にくるんで、一緒に冷凍しておけばいい。ある程度細かくすれば、人間の体の一部か、ラットの体の一部か区別のつく人間などほとんどいないだろう。一度冷凍しているならなおさらだ。月に一回の実験動物の回収のたびに、ラットの腹の中に少しずつアイツ一部を巻き込んで業者に捨ててもらう。いいアイデアだと思った。
しかしアイツはでかくて一度では捨てきれない。そこで残りはボクのサンプルに混ぜ込んで冷凍保存した。ボクのサンプルの入った冷凍庫に手出しをする人間はほかにいない。きっと大丈夫だ。
問題は、骨だった。骨だけはどうしようもない。
細かくしきれない骨。この処理方法はふとした瞬間に思いついた。
とける!!
骨はとける!!
その日から試薬を多めに注文し、少しずつ流用し始めた。
細かなグラム数まで記録している人間はこの研究室にはいない。ちょっとずつばれない程度に試薬をアイツの骨を溶かすことに使っていく。水酸化ナトリウムや塩酸にアイツの骨を溶かしこむ。全て液体になったら、廃液として処理する。
完璧なプランだと思った。しかし、このプランを完遂するためには、ボクはこれまで以上に研究室でまじめにやっていかなければならなくなった。
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その日、彼は珍しく上機嫌で、「一緒に飲みに行きませんか?」と誘われた。
あまり酒を飲む印象のなかった彼だが、その日は生ビールに焼酎を飲んでえらく楽しそうだった。
何かいいことがあったのか尋ねてみると、彼は笑顔で、「ええ、悩みの種がきれいにとけてなくなりました」と笑っていた。私はそんな彼を見ながら、「それはいいことだね」と返した。




