第一話 あはれ——指先の、恋——
あっち向いて、ホイ。
たった八文字の遊びで、人は恋に落ちることがある。
私がそれを知ったのは、高校二年の、四月の終わりだった。
*
私立桐ヶ丘高校の昼休みは、少しだけ静かだ。
朝、校門をくぐった瞬間に、私たちはスマホの電源を落として、鞄のいちばん底に沈める。見つかれば没収。反省文は原稿用紙二枚。先生たちは本気で、生徒たちも、だいたい本気で従っている。
だから、昼休みの教室には、画面をのぞき込む俯いた首がない。代わりに、トランプとか、しりとりとか、誰かが持ってきた知恵の輪とか、昭和みたいな遊びが、机と机のあいだを行き来している。
私と結菜のあいだを行き来していたのは、あっち向いてホイだった。
「最初はグー、じゃんけん、ぽん」
結菜がパーで、私がグー。
「あっち向いて——」
結菜の人差し指が、私の鼻先に突きつけられる。細くて、爪の先まで桜色で、中学のころから、私はこの指がちょっとだけうらやましかった。
「ホイ!」
指が右。私の顔も、右。
「はい栞の負けー。五連敗」
「……結菜、指が速すぎる」
「栞が素直すぎるの。指につられて顔が動いてるもん」
北川結菜は、お弁当の卵焼きをつまみながら、勝ち誇ったように笑った。表情がくるくる変わる子だ。笑うときは顔全部で笑うし、怒るときは頬がちゃんとふくらむ。中学一年で隣の席になってから、もう五年目になる。クラス替えのたびに、また一緒だね、とこの子は言い、私は、そうだね、とだけ答えてきた。
私は早瀬栞。物静か、と通知表に書かれるタイプの人間だ。好きなものは、本と、古文の授業と、放課後の古文準備室。準備室の話は、また今度にする。
「もう一回」
「えー、まだやるの?」
「勝つまで」
「栞って、そういうとこ頑固だよね」
結菜はそう言いながら、ちゃんと拳を出してくれる。
「最初はグー、じゃんけん、ぽん」
今度は、結菜がグーで、私がチョキ。
また負けた。六連敗の予感がする。
結菜が、得意げに人差し指を立てた。
「あっち向いて——」
そのとき、教室の後ろのほうで、どっと笑い声が上がった。
結菜の目が、ちらりとそっちを向いた。
「……ホイ」
結菜の指は、右にも左にも振られなかった。
声だけが「ホイ」と言って、指先は、教室の後ろのほうを指したまま、ふわりと止まった。
勝負のことなんて、すっかり忘れてしまったみたいに。
*
指につられて顔が動く。結菜にいつも笑われる、私の悪い癖だ。
だから私の顔は、いつものように、結菜の指が止まった先へ、そのまま向いた。
結菜の指は、机の上の宙に浮いたまま、まだそこを指していた。
教室の後ろ、窓際。男子が四、五人、机に腰かけて騒いでいる。その真ん中で、ひとりの男子が、両手を叩いて笑っていた。
真壁直斗。
いつもクラスの真ん中にいる人だ。背が高くて、声が大きくて、先生にも平気で冗談を言う。体育祭ではリレーのアンカーを走り、文化祭の出し物の話し合いでは、気づくと黒板の前に立っている。そういう人。
私は、もう一度、結菜を見た。
結菜は、真壁くんを見ていた。
さっきまでの、勝ち誇った顔じゃなかった。頬がふくらんでもいない。ただ、少しだけ唇が開いて、まばたきを忘れたみたいに、ひとつの方向を見つめていた。
窓から入ってきた四月の光が、教室の後ろ半分を、白く照らしていた。
机に腰かけた男子たちの背中。叩かれる手のひら。はじけるような笑い声。その手前で、行き場をなくしたまま止まっている、細い人差し指。
全部が、ひとつの景色の中にあった。
きれいだ、と思った。
毎日見ているはずの教室が、こんなにきれいに見えたのは、初めてだった。
——あ。
胸の奥で、何かが、音もなくほどけた。
その瞬間、私は恋に落ちた。
その景色の中にいた、ひとりに。
心臓の音が、教室の笑い声にまぎれて、誰にも聞こえなければいいと思った。
*
「……結菜」
「えっ」
結菜の肩が、びくりと跳ねた。慌てたように私に向き直って、止まっていた指を、ぎゅっと握り込む。
「あ、ごめん、今の、なし! 見てなかった! ノーカン!」
「私、そっち向いたよ。結菜の勝ちでしょ」
「だめ、今のはノーカン」
「せっかく六連敗できたのに」
「……栞のいじわる」
結菜は、頬をふくらませた。いつもの結菜だった。でも、耳の先が、少しだけ赤かった。
私は気づかなかったふりをして、お弁当の蓋を閉めた。
教室の後ろで、また笑い声が上がる。真壁くんの声が、一番大きい。結菜の視線が、もう一度、そっちに流れかけて、途中で止まった。
私は、窓の外を見た。
校庭の隅の桜は、もうほとんど散っていた。枝の先に残った最後の何枚かが、風に揺れて、落ちるか落ちないかの場所で、ぎりぎり踏みとどまっていた。
*
午後の授業は、古文だった。
柏木先生は、チョークで黒板に大きく三文字を書いた。
あはれ。
「古文の『あはれ』はね、かわいそう、だけじゃないの」
先生は、白髪まじりの髪を耳にかけながら、教室を見渡した。定年まであと数年という、小柄な女の先生だ。和歌の話になると止まらなくなるので、一部の男子からは「和歌ばあ」と呼ばれている。本人は知っていて、けっこう気に入っているらしい。
「心が、思わず『ああ』と動いてしまうこと。美しいものを見たとき。悲しいものを見たとき。愛しいものを見たとき。自分でも止められずに、胸が震えてしまう。それが『あはれ』」
私は、ノートに、あはれ、と書いた。
それから、その横に、小さく書き足した。
窓際。
書いてから、すぐに消しゴムで消した。消しかすを手で払うと、紙の上に、うっすらと跡だけが残った。
斜め前の席で、結菜が、こっそり後ろを振り返った。
真壁くんのほうを。
私はうつむいて、消した跡の上に、もう一度、あはれ、と書いた。
今度は、消さなかった。
*
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、結菜が、私の袖を引いた。
「ねえ、栞」
「なに」
「……明日、手紙書いてきてもいい?」
結菜は、上履きのつま先で、床のタイルの目地をなぞっていた。
「相談したいこと、あるの。口じゃ言えないやつ」
携帯を使えないこの学校では、大事な話は、ルーズリーフの手紙で渡す。四つ折りにして、さらに斜めに折って、ハートの形にする子もいる。私たちも、中学のころから、そうやって何十通も交換してきた。
「いいよ」
と、私は言った。
何の相談か、聞かなくても分かっていた。
分かっていたから、聞かなかった。
校門を出て、鞄の底からスマホを取り出す。電源を入れると、画面がぱっと明るくなった。通知は、何もなかった。
私は、今日のことを、誰にも言えない。
言えないことが、ひとつ、できてしまった。
四月の終わりの風が、制服のスカートを揺らした。どこかで、最後の桜が、とうとう枝を離れた気がした。




