虚ろなる空間
私には、人生でおよそ七時間の記憶がない。
そこに開腹手術での全身麻酔の時間は含まれない。
自らの身体が血液をそこに送らなくなって、一次的に招じた時間だ。
「この洗濯は私がしたの?」
通りかかった夫に、私はこう聞いたのだという。
私以外に家にいるのは夫と猫二匹だけ。
夫がしていなければ、当然私がしたものだ。
ある病気を疑って、夫は矢継ぎ早に質問を投げかけたそうだ。
「今プライムビデオで視聴しているアニメは何?」
この質問で確信を得たという。
およそひと月分の記憶が無いと。
笑ってはいけない。大真面目だ。
ひと月程前まで、ある長編アニメを連日消化していた。
直前は別の作品の二期が配信されるというので、一期をおさらいしていた。
慌てた夫は、すぐに総合病院に私を連れて行き、受付で受診する科を案内された。
『もの忘れ外来』
まだ五十歳にもなっていないというのに。
当時、何かと心配事があった。
五年以上延々と続いていた。
メンタルにはあまり来ない性格なので、上手く発散されていると思い込んでいた。
多少落ち込んでも、最終的には何となく収まっていた。
──甘い。甘すぎる認識だったらしい。
身体のほうに影響が出た。
問診、CTスキャン等々、色々やったらしい。
何一つ覚えていない。
時々、夫にこう言っていたらしい。
「病院にいるのは理解できるが、何故かはわからない」
普段通り話し、行動していたという。
診察を終え、会計。
昼になっていたので、途中でファミレスに寄った。
⋯⋯⋯⋯。
はて、何故私の目の前に『まぐろ丼』があるのだろう?
周りを見渡すと、見覚えのあるファミレス。
疑問符が頭に飛び交う。
このあたりから朧気に記憶がある。
ファミレスを出て、職場に翌日のシフトに出られない旨を伝えに行く。
だが、まだ五分前の記憶を覚えていない。
「今、言ってきたんだよね?」
「もう一回行ってきてみ? 真実味がでるよ」
──同僚の顔が、もの凄く心配げだった。
家に帰り、ジワジワと記憶が繋がり始める。
言われたらしい病名を検索する。
『一過性全健忘』
海馬に血液が流れにくくなると発症するらしい。
原因は不明だが、ストレスによるものだったりするようだ。
偏頭痛既往の人も発症リスクが高いとか。
因みに再発はほぼない。
が、なかなかどうして、これ自体がストレスだ。
その発症している間の記憶は、保存されない。
空白の時間だ。
二週間後、大の苦手なMRIを撮りに行く。
何故。
記憶がない時にやってもらえたら、きっとこんなに恐怖を感じないで済んだのに。
いや、記憶がないだけで恐怖は感じるだろう。
脳に異常はない。
年相応の脳。
ふふ、安心した。
ストレス。
甘く見てはいけない。
私はこの他にも『突発性難聴』にもなった。
『うつ』にならないからといって、負荷がかかっていないと思ってはいけない。
あれから時が経ち、当時より思い煩う事柄が少なくなった。
嫌な事は、なるべく早々に解決する事にしている。
やっと手に入れた時間。
好き勝手やって発散する。
今はひたすら好きなように創作する事だが。
偏頭痛をお持ちの方。
ストレスをため込んでいる方。
皆様お気を付けて。
それは突然やってくる。




