第3話 外敵の排除と所有権
磨き上げた革ベルトのバックルに、歪んだ自分の顔が映っている。
布で拭い取った油脂の残りが、銀色の表面に虹色の膜を作っていた。指の腹でそれを押し広げ、均一な光沢に変える作業を繰り返す。
室内の空気は澱んでいた。
暖炉の熱気と、男の濡れた服が乾く際の湿気、それに獣肉の脂の匂いが混ざり合い、呼吸をするたびに肺に重く貼り付く。
男はまだ床にうずくまっている。
拾った肉屑はあらかた食べ尽くしたようだ。今は毛布を頭から被り、膝を抱えて小刻みに揺れている。
咀嚼音が止むと、代わりに外の音が耳につくようになった。
風の音ではない。
もっと低く、粘着質な音だ。
丸太を組んだ壁の向こう側で、何かが荒い息を吐いている。
濡れた鼻先が、木の隙間を嗅ぎ回るズズッという音が、壁板を通して振動として伝わってきた。
一匹ではない。
東側の壁と、入り口の扉付近。少なくとも二方向から、複数の気配が家屋を取り囲んでいる。
爪が硬い木材を引っ掻く、カリカリという乾いた音が鼓膜を刺した。
毛布の塊が、びくりと跳ねた。
男も気づいたらしい。
毛布の隙間から、青白い顔が覗く。
その瞳孔は極限まで開き、暖炉の明かりを反射して黒く光っていた。
視線が、壁と扉、そしてこちらの顔を忙しなく往復する。
「……っ」
男が口を開いたが、声にはならなかった。
代わりに、ヒューヒューという引きつった呼吸音が漏れる。
男は床を這いずり、暖炉の隅へ、壁際へと後退しようとした。だが、壁の向こうにいる「何か」の気配を感じ取り、触電したように身をすくめて中央へ戻る。
逃げ場はない。
ここは雪に閉ざされた密室であり、外には飢えた捕食者が待機している。
ため息が出た。
せっかく手入れを終えたベルトを、椅子の背もたれに戻す。
立ち上がると、膝の関節がポキリと鳴った。
男がその音に過剰に反応し、頭を抱えて蹲る。
怯えきっている。
自分を守ってくれる存在への期待など微塵もない。ただ、暴力的な死が迫っていることへの絶望だけがそこにあった。
土間に置いてあった薪割り用の斧を手に取る。
柄は使い込まれて黒ずみ、手のひらに吸い付くように馴染む。刃先は昨日研いだばかりだ。
重量を確認するように手首を回す。
重心は先端にある。遠心力だけで頭蓋を粉砕するには十分な重さだ。
扉へ向かって歩き出すと、男が這いずってきて、こちらのブーツにしがみつこうとした。
置いていかれると思ったのか、それとも盾にしようとしたのか。
「邪魔だ」
ブーツの爪先で、男の肩を軽く払う。
蹴り飛ばすまでもない。男はそれだけでバランスを崩し、薪の山に突っ込んだ。
崩れた薪がガラガラと音を立てて男を埋める。
それを一瞥もせず、扉の閂に手をかけた。
鉄の棒は冷え切っており、素手で触れると皮膚が張り付く感覚があった。
外の気配が強まる。
こちらの動きを察知したのか、低い唸り声が扉の直近から聞こえ始めた。
閂を外す。
重い扉を、勢いよく内側へ引いた。
猛烈な冷気が、白い霧となって室内に雪崩れ込む。
その霧を裂いて、灰色の影が飛び込んできた。
狼だ。
冬毛を蓄え、一回り大きく見える巨躯。
牙を剥き出しにし、涎を垂らしながら、熱源である室内へ躍り込む。
速い。
だが、直線的すぎる。
半歩、横へずれる。
狼の爪が、先ほどまで自分が立っていた場所の空気を切り裂く。
すれ違いざま、斧を振り下ろした。
力はいらない。斧の重さに、落下の速度を乗せるだけだ。
ゴッ。
鈍く、湿った音が響いた。
刃が狼の首の付け根、脊椎の隙間に深々と食い込む。
悲鳴を上げる間もなかった。
狼の身体が空中で硬直したまま、慣性で床に叩きつけられる。
痙攣。
鮮血が噴き出し、床板の節目を赤く染め上げた。
*
まだいる。
外の雪原に、光る目が三対。
仲間の死に怯むどころか、血の匂いに興奮して距離を詰めてきている。
斧を死体から引き抜く。
骨に噛んでいた刃が外れる際、ヌチャリという不快な音がした。
ブーツの底で床を踏みしめる。
室内に入られると掃除が面倒だ。
こちらから出る。
雪を踏む音を立てて、戸口の外へ出た。
風が頬を打ち、髪を乱暴にかき乱す。
先頭の一匹が飛びかかってきた。
低い姿勢からの、喉笛を狙った跳躍。
斧の柄を短く持ち直し、裏側の峰の部分で、空中の鼻先を殴りつける。
硬いものが砕ける感触。
狼が横へ弾き飛ばされ、雪の上に転がってのたうち回る。
残り二匹が左右に展開した。
連携を取るつもりだ。賢い。
だが、ここは森ではない。小屋の前、雪かきをした狭い通路だ。
動き回れるスペースは限られている。
右の個体が牽制の声を上げた瞬間、左の個体が死角から噛み付こうとした。
左腕の革手袋を囮にする。
牙が手袋の厚い革に食い込む感触。
痛みはない。牙が皮膚に届く前に、筋肉を硬直させて受け止める。
腕に狼をぶら下げたまま、右手の斧を振るった。
横薙ぎの一撃。
刃が脇腹に吸い込まれ、肋骨を断ち切る感触が手元に伝わる。
狼が口を開け、力を失って落下した。
最後の一匹は、すでに背を向けていた。
賢い獣だ。勝てないと判断すれば、即座に逃走を選択する。
深追いはしない。
投げナイフを使うまでもないだろう。
雪原に点々と続く血痕を残し、灰色の影は闇夜の森へと消えていった。
大きく息を吐く。
白い呼気が、血の匂いを含んで立ち上る。
斧についた血糊を、手近な雪で拭った。
雪が赤く染まり、体温を持った液体の熱ですぐに溶けていく。
足元の死体を片付ける必要がある。
解体すれば肉と毛皮になるが、今はまだそこまでの気力がない。
とりあえず、風除けとして入り口の脇に積み上げることにした。
まだ温かい死体を掴み、放り投げる。
重い音がして、死体の山ができた。
*
小屋の中に戻る。
扉を閉め、凍りついた閂を再び差した。
室内は静まり返っていた。
暖炉の火が、変わらずに燃えている。
床には、最初の一匹の血溜まりが広がっていた。
その向こう、薪の山に埋もれた場所で、男がこちらを見ていた。
腰が抜けているのか、立ち上がることもできず、這いつくばったままだ。
その視線は、先ほどまでの怯えとは種類が異なっていた。
圧倒的な暴力への畏怖。
そして、理解不能な存在を見るような困惑。
男の頬に、血が一滴、飛び散っていた。
狼の血だ。
白い肌の上で、その赤は酷く鮮烈で、毒々しいほどに映えた。
斧を土間に戻す。
手袋を外し、血で汚れた上着の袖を払った。
男の前まで歩く。
男がビクリと震え、目を閉じて首をすくめる。殴られると思ったらしい。
手を伸ばした。
親指の腹で、男の頬についた血を強引に拭い取る。
男が目を開け、息を呑んだ。
皮膚が擦れて赤くなるほど強く、徹底的に拭う。
「……汚れる」
低い声が出た。
男の顔のことではない。
この小屋の中にあるものは、道具であれ家具であれ、そして拾った人間であれ、すべて自分の管理下にある。
所有物に、外敵の痕跡が残っていることが不快だった。
指先についた血を、男の服で拭う。
男は抵抗しない。
されるがままになりながら、震える瞳でこちらを見上げ続けている。
その目には、安堵の色はなかった。
助けられたという認識すらないだろう。
ただ、自分を生かすも殺すも、この目の前の暴力装置次第であるという事実を、骨の髄まで理解した目だった。
それでいい。
勘違いされるよりはマシだ。
血のついた床を指差し、顎で布巾のある場所をしゃくった。
「拭け」
男は弾かれたように動き出した。
這いずりながら布巾を掴み、必死の形相で床の血をこすり始める。
その背中を見下ろしながら、椅子に座り直した。
中断していたベルトの手入れを再開する。
外の風の音は、もう気にならなかった。




