第2話 餌付け
煤けた天井の梁から、乾燥した薬草の束がぶら下がっている。
風が吹き込むたびに、その枯れた植物の束が振り子のように揺れ、カサカサという乾いた音を立てた。
暖炉の火は安定している。薪の芯まで熱が通り、時折パチリと大きく爆ぜて、赤い火の粉を撒き散らした。
床に転がした毛布の塊が、微かに蠢いた。
獣が罠にかかったときのような、痙攣に近い震え。
スコップを壁に立てかけ、手袋についた雪を払い落とす。濡れた革が床を叩く音が、静寂の中で過剰に響いた。
毛布の端がめくれ、中から白い腕が伸びた。
指先が床板の継ぎ目をひっかき、何かを探すように彷徨う。
視界が定まっていないのか、男の顔は焦点の合わない眼球を忙しなく動かしていた。青ざめた唇が、音にならない呼気を漏らす。
熱源を求めている。
這い出そうとする動きは緩慢で、生まれたての仔鹿のように頼りない。
靴の爪先で、床板を一つ叩いた。
乾いた音が響く。
男の動きが止まった。
視線が、床を這って、濡れたブーツの泥汚れから、革のズボン、そして見下ろす顔へと吸い上げられていく。
男の瞳孔が開いた。
そこにあるのは、救助者を見る目ではない。捕食者を前にした獲物の、原初的な恐怖だ。
声も出せず、男は後ずさろうとして、毛布に足を取られた。無様に背中から転がり、壁に後頭部を打ち付ける。
鈍い音がしたが、悲鳴は上がらない。喉が凍りついて機能していないらしい。
無視して、腰のベルトに手をかけた。
革袋から取り出したのは、石のように硬化した干し肉の塊だ。
鹿の腿肉を塩漬けにし、風に晒して水分を極限まで抜いた保存食。
ナイフを取り出す。
刃渡りの長い、解体用のナイフだ。研ぎ澄まされた刃先が、暖炉の炎を反射して鈍く光る。
男が息を呑み、さらに身体を小さくして壁に張り付いた。殺されると思ったのだろう。
否定も肯定もしない。
干し肉を左手で鷲掴みにし、ナイフの刃を立てる。
ガリッ、という硬質な音がした。
肉を削ぐ音ではない。木材か石を削る音だ。
薄く削ぎ落とされた肉片が、パラパラと床に落ちる。
一片を拾い上げ、口に放り込む。
噛み砕く。塩気と鉄分、そして凝縮された獣の脂の味が広がる。
飲み込んでから、もう一片を削ぎ落とした。
男の方を見る。
壁にへばりついたまま、視線だけがナイフと肉を行き来している。
腹の虫が鳴いた。
高い、情けない音だ。
本人の意思とは無関係に、身体が燃料を要求している。
手に持った肉の塊を、男の足元へ放り投げた。
ゴトッ、と重い音がして、干し肉が床を滑る。
男が呆気にとられた顔をした。
自分の足元に転がった肉と、こちらの顔を交互に見る。
手渡されると思っていたのか。あるいは、皿に盛られて出てくるとでも思ったのか。
「食え」
短く告げる。
声がしゃがれていた。
男は躊躇していた。プライドが邪魔をしているのか、あるいはそれが食べ物だと認識できていないのか。
眉をひそめると、男がビクリと肩を跳ねさせた。
恐る恐る、震える手を伸ばす。
指先が肉に触れる。冷たい床の上で、泥のついた肉を掴む。
男はそれを両手で持ち上げ、口元へ運んだ。
齧り付く。
顎に力が入るのが見て取れる。こめかみの血管が浮き出るほど強く噛み締め、首を振って引きちぎろうとする。
だが、肉は微動だにしない。
今の男の顎の力では、この圧縮された筋肉の繊維を断ち切ることは不可能だ。
男が目元を歪め、苦しげに咳き込んだ。
口から肉を離す。歯型すらついていない。
役立たずめ。
舌打ちをして、男の前に歩み寄る。
男が悲鳴を上げようとして、掠れた音だけを漏らして身をすくめる。
手から肉をひったくるように取り上げた。
男の指が空を掴む。
再びナイフを構える。
男の目の前で、切っ先を肉に突き立てた。
ザシュ。
今度は力を込め、繊維に逆らわずに薄く削いでいく。
木屑のような肉片が、男の膝の上に散らばった。
ハラハラと落ちる茶色の破片を、男は呆然と見つめている。
ナイフを鞘に納め、元の位置に戻る。
これ以上、手をかけるつもりはない。
咀嚼すらできないなら、餓死すればいい。
*
静寂が戻った部屋に、微かな音が響き始めた。
クチャ、クチャという、水気を含んだ咀嚼音。
男が膝の上の肉片を拾い集め、口に運んでいる。
一枚ずつ、丁寧に、リスが木の実を齧るように。
塩辛すぎるのか、時折顔をしかめ、喉を詰まらせて胸を叩いている。
水はやらない。
雪解け水が入った桶は入り口にある。飲みたければ、そこまで這っていけばいい。
椅子の背もたれに掛けた革ベルトの手入れを始める。
布に油を含ませ、革の表面を磨く。
一定のリズムで手を動かしながら、視界の端で男を観察する。
膝の上の肉片がなくなると、男は床に落ちた屑に目を向けた。
迷いは一瞬だった。
白い指が床板の隙間をなぞり、小さな欠片を拾い上げる。
埃がついていることなど気にしていない様子で、それを舌の上に乗せた。
生存本能が、羞恥心を凌駕している。
それでいい。
ここでは、気高さなど腹の足しにもならない。
地面に落ちたものを拾ってでも食う執着だけが、明日へ繋がる。
男がこちらを見た。
口元を脂で汚し、目は潤んでいる。
感謝の言葉か、あるいは不平か。
何かを言おうとして、唇をパクパクと動かしたが、結局何も言わずに頭を下げた。
そしてまた、床に残った小さな肉屑を探し始めた。
その背中は小さく、丸まっている。
暖炉の炎が男の影を壁に映し出し、その影がゆらゆらと揺れた。
油の匂いが鼻孔を満たす。
外では風が唸りを上げ続けている。次の嵐が来る前に、窓の補強を確認する必要があるかもしれない。
磨き上げたベルトを光にかざし、革の艶を確認する。
男の存在を頭の隅に追いやり、次の作業の手順を組み立てる思考へと沈んでいった。




