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「働かないなら埋める」と脅した公爵様、私の下僕(ペット)として覚醒する  作者: 河合ゆうじ


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第1話 生存の許可

 鉄のスコップの先端が、硬直した積雪の層に阻まれた。


 手首に伝わる鈍い反動が、古い革手袋の縫い目をきしませる。吐き出した息が白い塊となって視界を遮り、すぐに風にさらわれて散散になった。

 スコップを引き抜き、角度を変えて再び突き立てる。今度はざくりという湿った音がして、白い塊が崩れた。

 柄を握る掌の皮が、寒さで硬化している。指先の感覚はすでに希薄だ。

 日課の作業である。昨晩の嵐が運んできた膨大な量の白を、居住空間の周囲から排除するだけの労働。

 三度目。金属音がした。岩ではない。もっと鈍く、そして奇妙に弾力のある音だった。


 眉間の皺が深くなるのを、凍りついた皮膚の突っ張りで自覚した。

 雪を払う。スコップの刃先ではなく、ブーツの爪先で蹴り崩した。

 白い粉末の下から現れたのは、場違いな黒だった。

 革だ。それも、この辺りで使われるような厚くなめした牛革ではない。表面に細かな装飾が施された、艶のある薄い革のブーツ。

 金具が銀色に光っている。錆ひとつない、磨き上げられた銀。


 さらに雪をかく。

 黒いブーツから伸びているのは、脚だった。

 雪に埋もれた倒木のように、不自然な角度でそこにある。

 まとっている布地は、見ただけで繊維の細さがわかるほど滑らかだ。濡れて黒ずみ、凍結して張り付いているが、元は深みのある紺色だったらしい。

 死体処理か。

 舌打ちが出た。舌の根が干からびていて、乾いた音が口腔に響く。

 冬の間に小屋の近くで行き倒れた獣や人間は、春になれば腐臭を放つ。地面が硬すぎて埋めることもできない季節だ。今のうちに森の奥へ引きずって捨てておくのが、最も合理的な衛生管理だった。


 *


 脚を掴んで引っ張り出す。

 予想よりも軽い。

 普段担いでいる薪の束よりも、あるいは先週仕留めた雄鹿よりも遥かに質量が足りない。

 中身が詰まっていないのではないかと疑うほどだ。

 雪の抵抗を受けながら、その物体はずるずると引きずり出された。

 仰向けになった顔が、灰色の空に晒される。


 生存している人間が持つ色は、そこにはなかった。

 皮膚は陶器のように白く、唇は青を通り越して紫色に変色している。

 睫毛が凍りつき、白い霜の結晶がびっしりと付着していた。

 整いすぎている。

 目鼻立ちの配置が、職人が定規で測って作った細工物のように均整が取れている。

 自然界で生き延びるために必要な、粗雑さや頑強さが欠落していた。

 頬に手を当てる。

 手袋を外し、素手で触れた。

 冷たい。

 小屋の窓枠に使われている鉄と同じ温度だ。

 首筋に指を押し当てる。

 脈拍。

 極めて微弱だが、指の腹をかすかに叩くリズムがある。一分間に数回、途切れそうなほど弱い振動。

 生きている。

 だが、時間の問題だろう。

 この装備では、仮に意識があったとしても、日没まで持たない。外套すら着ていない。室内用の衣服のまま、この極寒の地に放り出されている。


 視線を下げる。

 腰回りに剣帯はない。懐に膨らみもない。

 金目のものといえば、ブーツの留め具と、指にはまった石付きの指輪くらいか。

 食料は持っていないだろう。

 むしろ、この痩せた身体そのものが、食料としての価値すらない。

 筋肉も脂肪も削ぎ落とされた、骨と皮だけの構造物。狼ですら、これよりは肉付きの良い獲物を選ぶ。

 燃料にもならない。食料にもならない。

 ただの、有機物の廃棄物。


 手を離した。

 ドサリと、物体が雪の上に落ちる。

 そのまま放置して、作業に戻ろうとした。

 背を向けて、スコップを握り直す。


 ざっ。

 雪が擦れる音がした。

 足首に、何かが触れる感触。

 視線を落とす。

 ブーツの縁を、白い手が掴んでいた。

 先ほどまで死人のように動かなかったはずの手だ。

 手袋をしていない、素手の指。関節が赤く腫れ上がり、爪の色は紫色だ。

 それでも、その指は革のブーツにしがみついていた。

 震えている。

 小刻みな痙攣ではなく、何かを訴えるような、必死な収縮。

 顔を見る。

 目は閉じられたままだ。意識はない。

 これは生存本能による反射だ。

 熱源を感知し、無意識に掴みかかっただけの、生物としての末期的なあがき。

 蹴り飛ばすのは容易だった。

 足首を少し振るだけで、この脆弱な拘束は外れる。


 だが、その指の形が、奇妙に視界に残った。

 泥にまみれ、凍傷になりかけているにもかかわらず、その指は長くて美しかった。

 道具を握って生活してきた人間の手ではない。

 ペンよりも重いものを持ったことがないような、無垢な手。

 それが、汚れた革のブーツに、必死に食らいついている。

 その対比が、奇妙なほど滑稽で、同時に、理解しがたい引力を放っていた。

 役に立たないもの。

 美しいだけのもの。

 この過酷な北限の地において、最も不要とされる属性。

 それが、今、自分の足元で、生きようとしていた。


「……ふん」


 鼻から短く息を吐く。

 屈み込み、その襟元を乱暴に掴んだ。

 丁寧に抱き上げるようなことはしない。

 麻袋を運ぶ時のように、片手で襟首を締め上げ、地面を引きずる。

 高価そうな服の生地が、凍った地面と擦れて嫌な音を立てた。

 構うものか。

 どうせ濡れている。

 荷物は重くない。ただ、長い手足が邪魔なだけだ。


 *


 小屋の扉は、蝶番が錆びついていて、開けるたびに叫び声のような高い音を立てる。

 蹴り開けると、中の薄暗い空気が、外の冷気と混じり合った。

 中へ踏み込む。

 床板に泥と共に、その物体を引きずり込んだ。

 暖炉の前まで運び、手を離す。

 ゴロリと、無防備な音がして、床に転がった。

 閉じた扉の向こうで、風の音が唸っている。室内の静寂が、より一層際立つ。


 部屋の中は、乾いた薪の匂いと、獣脂の焦げた匂いが染みついている。

 暖炉の中では、熾火おきびが赤く明滅していた。

 昨晩燃やした薪の残骸だ。

 新しい薪を二本、放り込む。

 火かき棒で底の灰をかき混ぜると、空気が通り、炎が勢いよく復活した。

 パチパチと、木の皮が爆ぜる音が室内に響く。


 床に転がった男を見る。

 暖炉の熱が届く距離だ。

 衣服についた雪が溶け始め、黒い布地に染み込んでいく。

 このままでは、気化熱で逆に体温を奪われる。

 濡れた布は、ここでは刃物よりも危険だ。

 近づき、男の体を裏返す。

 ボタンは複雑な装飾が施されていて、指先がかじかんだ状態では外しにくい。

 苛立ちに任せて、布地ごと引き千切りそうになるのを堪える。

 一つ、二つ。

 小さな留め具を外していく作業は、単純な労働よりも神経を使った。

 上着を剥ぎ取る。

 下に着ていたのは、薄いシャツ一枚だった。

 それも濡れて肌に張り付いている。

 シャツも脱がせる。

 抵抗はない。関節が冷え切っていて、人形のようにカクカクと動く。

 上半身が露わになった。

 あばら骨が浮いている。

 白磁のように滑らかな肌だが、所々に青あざがあった。

 古い傷跡ではない。最近ついたものだ。打撲の痕。

 どうでもいい情報だ。

 ズボンにも手をかける。

 ベルトを緩め、濡れた革靴と共に引き抜く。


 すべて剥ぎ取ると、男は下着一枚の姿になった。

 床に転がしておくには、あまりに哀れな姿だ。

 部屋の隅に積んであった、予備の毛布を掴む。

 獣の毛皮をなめした、粗末で重い毛布だ。

 それを、男の上に放り投げた。

 ふわりと掛けるのではない。

 荷物にカバーをかけるように、頭から足先まで、無造作に覆い隠す。

 毛布の下で、男の形が盛り上がる。

 動かない。

 死んでいるのか、まだ生きているのか。

 どちらでもよかった。

 死ねば、暖かくなってから埋めればいい。生きれば、その時考えればいい。

 少なくとも今は、外の雪かきを終わらせる方が先決だ。


 *


 再び外へ出る。

 風が強くなっていた。

 スコップを握り直す。

 先ほど中断した場所から、雪を掘り返す作業を再開した。

 単調なリズム。

 ざく、ざく、という音だけが、思考を埋めていく。

 ふと、視線を小屋の方へ向けた。

 小さな窓から、暖炉の明かりが漏れている。

 その中に、異物が転がっている事実。

 本来なら、ひとりで完結していた空間だ。

 食うもの、寝る場所、燃やすもの。すべてが計算通りに循環していた閉鎖空間。

 そこに、計算外のノイズが入り込んだ。

 拾ってしまった。

 あの指が、ブーツを掴んだ感触が、まだ足首に残っている気がした。

 スコップを持つ手に力が入る。

 硬い雪の層を、怒りをぶつけるように叩き割った。

 無意味なことをしたかもしれない。

 だが、あのまま雪に埋もれさせるには、あの「部品」はあまりに出来が良すぎた。

 ただの気まぐれだ。

 あるいは、部屋の装飾品が一つ増えたと思えばいい。

 剥製よりは手がかかるが、少なくとも、眺める分には悪くない造形をしていた。


 空を見上げる。

 鉛色の雲が、低く垂れ込めている。

 午後からはまた降るだろう。

 その前に、薪の補充もしておかなければならない。

 あの「荷物」が生き延びた場合、室温を維持するための燃料が余計に必要になる。

 舌打ちをして、スコップを雪山に突き刺した。

 余計な労働が増えたことへの不満と、ほんのわずかな、退屈が紛れたことへの奇妙な納得感。

 そのふたつを飲み込み、再び白い地面へと向かった。

 スコップの金属音が、誰に聞かれることもなく、冬の空気に吸い込まれていった。

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