Scene 4
激しい水音は止み、世界は再び、鉛を溶かしたような沈黙に閉ざされた。
灰色の空の下、濁った川の岸辺には、ただ二人の荒い呼吸音だけが響いている。
スカーレットは四つん這いになって咳き込む少年の背中に、恐る恐る手を添えた。
泥と水にまみれた指先から、彼のか細い背骨の感触が伝わってくる。濡れて頬に張り付いた髪を払ってやると、そこにはひどく憔悴した横顔があった。記憶を失っているスカーレットにとって、目の前の他者が何者かは判然としない。だが、冷たい水に濡れそぼるその姿はあまりに痛ましく、放置することなど到底できなかった。
「大丈夫……? 息、できてる?」
スカーレットが耳を澄ませると、少年は肺の奥に溜まった澱を吐き出すように、激しく咳き込んだ。
痩せぎすの体躯には、ボロボロのシャツが皮膚のように張り付いている。濡れた前髪の隙間から覗くその瞳は、凍えるような外気とは裏腹に、熱病に冒されたような異様なぎらつきを帯びていた。
少年は顔を上げ、濡れた獣のような鋭さで周囲をゆっくりと見回した。
そして、軋むような声で呟く。
「ここはどこだ……ロンドンではないのか?」
スカーレットは目を見開き、息を呑んだ。
ロンドン。
その言葉は、聞いたこともないほど古風で、奇妙な訛りを含んでいた。記憶の欠落した彼女の知識には存在しない地名のはずだった。
それなのに、どうしてだろうか。彼の言葉の意味や、そこに含まれる切迫したニュアンスが、理屈を超えてスカーレットの胸にすとんと落ちてくる。まるで彼女の魂の形が、彼の言葉を受け入れるための鋳型を持っているかのように。
(ロンドン? 私は何も思い出せないはずなのに、なぜ彼の言葉がこんなにも懐かしく、そして恐ろしく響くの……?)
呆然とするスカーレットを他所に、少年は彼女の視線を無視し、震える手で自身の顔や腕をまさぐり始めた。
指先を頬に這わせ、腕を掴み、そこに確かな肉の厚みと温かみがあることを確認している。
その必死な姿は、自分が透けて消え入りそうな亡霊ではないか、あるいはここが実体のない夢幻の境地ではないかと疑い、存在の証明を求めているようだった。
スカーレットはその異様な様子に戸惑いながらも、小刻みに震える少年の背中を優しくさすった。泥に汚れた手であっても、凍えた彼に少しでも体温を分け与えたかった。
「ここはロンドンじゃないわ。あなたは……一体、誰なの?」
生きていることは確認できた。けれど、彼の口にした「ロンドン」という響きには、ただならぬ動揺が含まれている。ここは彼が探している場所ではない。
不安と疑問が渦巻くが、この寄る辺ない灰色の世界で、彼を突き放すことなどできない。
問いかけに対する返答はない。スカーレットはさらに身を乗り出し、彼の顔を覗き込んだ。虚ろでありながら、どこか何かに取り憑かれたような瞳に、穏やかな声を投げかける。
「ねえ、何か辛いことがあったの? 話せる範囲でいいから、聞かせて?」
絶望と、自身が存在することへの安堵。相反する感情が入り混じった彼の表情に、スカーレットの胸が締め付けられる。記憶のない空っぽの私に何ができるかはわからない。けれど、せめてこの孤独な岸辺で、誰かがそばにいるという温もりだけでも伝えたかった。
その時だった。
少年は肺の底から、重く、長い溜息を吐き出した。それは安堵の息遣いというよりは、むしろ深い絶望の色を帯びた、魂の軋む音に近かった。
彼は濡れた髪を乱雑にかき上げると、冷徹な眼差しでスカーレットを見据えた。
先ほどまでの弱々しさは消え失せ、そこには獲物を定める猛禽のような、鋭利な知性が宿っていた。
「辛いこと、だと? ……私にそれを語る価値があるとでも?」
詩の一節のような、芝居がかった物言い。けれどその声音には、触れれば切れるような刃の冷たさがあった。
スカーレットは気圧され、思わず一歩後ずさる。さすっていた背中から手を離し、警戒するように彼との間に距離を取った。
(さっきまでの彼とは違う……)
同情を拒絶するような鋭い眼光に、不用意に近づくべきではないと本能が告げている。スカーレットは困惑の色を浮かべながら、慎重に言葉を選んだ。
「……ごめんなさい。無理に話さなくても大丈夫。ただ、あなたはひどく混乱しているように見えたから、何かできることがあればと思っただけ」
川の冷気が、二人の間の沈黙をより一層冷たく際立たせていた。




