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果てしないスカーレット  作者: 細田衛
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Scene 40



灰色の空の下、忘却の川レーテは今日も音もなく凪いでいた。

物語の終わりであり、此岸と彼岸を分かつその岸辺に、スカーレットはひとり佇んでいる。

彼女はゆっくりと歩み寄り、底知れぬ深さを湛えた暗い水面を見つめた。


この辺獄リンボにおいて、現世の物理法則など意味を成さない。あるのは魂の重さと、そこに込められた想いの深さだけだ。ゆえに、彼女の意識は時空の裂け目を滑り落ち、遥か彼方、ロンドンにある一室へと容易に重なり合う。


「……ああ、ウィリアム」


二つの世界が透かし模様のように映し出される。

辺獄の支配的な静寂を破り、カリ、カリ、と硬質な音が鼓膜を震わせた。それは、鳥の羽根を削ったペン先が、荒い繊維の紙を引っ掻く音だった。


ロンドンの書斎は、吐く息も白むほどの冷気に包まれていた。

若き詩人ウィリアムは、かじかむ指先の悲鳴も意に介さず、机にしがみついている。握りしめられたペンは、狂気を孕んだ指揮棒の如く羊皮紙の上をのた打ち回っていた。飛び散ったインクの飛沫が、薄汚れた寝間着の袖に黒い星座を描いていく。時折、彼は何かに取り憑かれたように虚空を睨みつけ、獣めいた呻き声を漏らしては、血塗られた悲劇の言葉を無理やり紙へと叩きつけていた。


彼は未だ、あの呪わしい復讐の劇に囚われているのだ。

形式、陰謀、自己愛、そして復讐――彼らが共に巡った階層、対峙した亡霊たちの慟哭が、彼を追い詰めている。このままでは、彼は物語の毒に冒され、自身の魂まで蝕まれてしまうだろう。


スカーレットは、心の眼に映る彼の背中を見つめた。その背はあまりに小さく、そして痛々しいほどに孤独だった。

レーテ川を渡る冷たい風が頬を撫でる。けれど不思議と寒くはない。彼が燃やす創作の情熱が、次元を超えて彼女を温めているからだ。


彼女は祈るように、彼に語りかけるための声を紡ぐ。


「復讐だけが、物語ではありませんでした」


燃え盛る舞台も、剣戟の響きも、むせ返るような血の匂いも、確かにあの一族の真実だったかもしれない。けれど、それだけではないはずだ。復讐の影に隠され、押し潰されてしまった、悲しくも美しい愛の記憶。それを彼に伝えなければならない。

スカーレットは水面に映るウィリアムの憔悴した姿に、遠い日の――あるいは、決して訪れることのなかった日の――記憶を重ねた。


彼女の唇から、柔らかな微笑みと共に言葉がこぼれ落ちる。それは歌のように、詩のように、彼方へ響く。


「柳の木の下で、母は歌っていました……」


ウィリアム、どうか思い出して。あるいは、幻視して。

復讐の炎を鎮める、あの優しい子守唄の響きを。狂気の中に咲いた純真を。

小川のほとり、鏡のような水面を覗き込むように斜めに生えた、あの古い柳の木の風景を。


その瞬間だった。


憑かれたように動いていたウィリアムの手が、唐突に止まる。

書斎の空気が凍りついたかのような静寂。

彼は天啓を受けた預言者のように息を呑み、震える手を再び羊皮紙の空白へと走らせた。今までの荒々しい筆致とは違う、何かに導かれるような滑らかな動きで。


『There is a willow grows aslant a brook...(小川のほとりに柳が一本、斜めに生えて……)』


ペン先から滴り落ちた余分なインクが、羊皮紙の上でじわりと滲む。それはまるで、乾いた紙が流した涙の痕のようにも見えた。


一行を書き終え、ウィリアムはふと顔を上げた。

淀んだインクとカビの臭いが充満する書斎の中を、一瞬だけ、清涼な風が吹き抜けた気がしたのだ。彼は呆然と、誰もいないはずの背後や、薄暗い部屋の隅を見渡す。そこにあるのは積まれた古書と、揺らめく蝋燭の火だけ。


「……?」


けれど、彼には確かに届いていた。スカーレットが放った「気配」という名のインスピレーションが。

その瞳は夢と現の狭間を彷徨いながらも、確かな温もりを探している。


その様子を次元の狭間から見つめていたスカーレットは、深く安堵の息を吐いた。

彼女の瞳は慈愛に満ちていた。もはや、物理的な言葉を交わす必要はなかった。声は届かずとも、魂の響きは届いたのだから。

彼女の中に眠る母オフィーリアの記憶。それは今、この瞬間、ウィリアムの筆によって『ハムレット』という戯曲の一部となり、永遠に結晶化されたのだ。


ウィリアムが再びペンを握る。その横顔には、先ほどまでの焦燥はなく、静かな情熱が宿っていた。彼は書き記した『There is a willow...』という一節を何度も見返し、言葉の海へと深く潜っていく。

悲劇を、ただの惨劇ではなく、人の心の奥底に響く芸術へと昇華させるために。


スカーレットはレーテ川の岸辺に佇んだまま、その流れに身を任せるように静かに目を閉じた。


(これで、いいのです)


私は、父ハムレットの妄執が生んだ「復讐の道具」でもなければ、誰にも知られずに消えゆく「孤独な魂」でもない。

私は、物語を救う「核」となれた。

ウィリアムが書き続ける限り、そしてこの物語が劇場で上演され続ける限り、私はその行間の静寂の中で、語り部として永遠に生き続けるのだから。


「おやすみなさい、ウィリアム。好き夢を」


風が止み、川面は鏡のように静まり返る。

二つの世界は再び離れ、けれど決して切れることのない絆で結ばれていた。

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