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果てしないスカーレット  作者: 細田衛
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Scene 39



灰色の荒野が記憶の彼方へ退き、視界を埋め尽くしたのは、まばゆいばかりの純白の光であった。

かつて歩んだ嘆きの森も、足を取られた泥濘ぬかるみも、すべては幻影として遠ざかっていく。


そこは、レーテ川の源流。

湧き出す水は水晶よりもなお透明で、清冽な音を立てて尽きることなく溢れている。その水音だけが、神聖な静寂の中で銀の鈴を振るように響いていた。ここにあるのは、忘却と浄化、そして――此岸しがんと彼岸を分かつ境界線。


ヴィルギリウスが静かに足を止めた。その背中は、これまでの過酷な旅路において常に二人を導く道標であった。老いた案内人は振り返り、スカーレットとウィリアムの顔を交互に見つめる。その瞳は厳かでありながら、どこまでも深い慈愛を湛えていた。


「ウィリアム、そしてスカーレットよ。ここがレーテ川の源流だ」


古代の詩人が紡ぐ叙事詩の一節のように、重厚な声が光の中で反響する。


「生と死のあわい、長き旅の終着点。汝らは今、その岐路に立っている」


隣に立つウィリアムが、スカーレットの方を向いた。旅の疲弊は光に洗われたのか、その表情は穏やかだった。若き詩人は、傍らにいる少女の顔をじっと見つめ、優しく、けれどどこか切なげに微笑んだ。


「スカーレット。君が安らげる場所が見つかって、本当に良かった」


彼は眩しそうに目を細め、周囲に満ちる光を見渡した。


「この光の中でなら、君はもう誰の陰謀にも、誰の狂気にも脅かされない。君は永遠に幸せでいられる。それが、僕の……僕の唯一の願いだ」


それは、心からの言葉だった。彼女が『生まれなかった子』として彷徨い、父ハムレットや母オフィーリアの歪んだ魂に心を痛めてきたことを、彼は誰よりも知っている。創造主さくしゃとしての贖罪にも似た響きがあった。

だが、その直後、ウィリアムは現世へと通じる光の渦を見つめ、はっとしたように息を呑んだ。


出口が開いている。生者の領域へ戻る道が、そこにあった。


ウィリアムの肩が震えた。彼は一度光の道へ目を向け、そして衝動的にスカーレットの方へ向き直った。その瞳から、諦観の色が消え、必死な熱が宿る。


「スカーレット、一緒に来ないか」


彼は手を伸ばした。インクで汚れたことのない、しかしこれから多くの言葉を記すはずのその指先が、スカーレットの指に触れようと宙を泳ぐ。


「君も……俺の物語の中で生きられるはずだ。お願いだ、ここにはもう君を縛る鎖はない。行かないでくれ……!」


懇願する声。その手の温もりに触れたいという渇望が、スカーレットの胸を焦がした。

彼と共に現世へ行けば、彼の紡ぐ戯曲の登場人物として、あるいはその創作の源泉として、共に生きることができるのかもしれない。孤独な『不在の存在』ではなくなるのかもしれない。


一瞬だけ、心が揺れた。

しかし、ヴィルギリウスはウィリアムの方を真っ直ぐに見据え、諭すように告げた。


「ウィリアムよ。その願いは痛いほど理解できる。しかし、そなたの物語はまだ終わってはいない」


老いた導き手は杖を突き、現世へと続く奔流を指し示す。


「彼女には彼女の選ぶべき道がある。そしてそなたにも、まだ現世で紡ぐべき物語が残されているのだ」


スカーレットは源流の清らかな水面に視線を移した。そこには、彼女の姿は映らない。けれど、絶え間なく流れる水は、悲しみを洗い流し続けている。


――いいえ。


スカーレットはウィリアムの手には触れず、ゆっくりと首を横に振った。

彼の物語の中で生きることは、甘美な誘惑だ。けれど、彼女はもう自分の居場所を見つけたのだ。

オズリックの空虚な形式、ポローニアスの保身、ガートルードの欺瞞、そして父と母の狂気と愛。辺獄で出会った彼らの魂は、みな物語の配役に縛られ、苦しんでいた。

この場所で、そんな苦しむ魂たちを救い、彼らの真実の物語を語り継ぐこと。

それが、単なる登場人物でも幻でもない、スカーレット自身の意志だった。


彼女は顔を上げ、ウィリアムの潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「いいえ、ウィリアム。私は行けません」


声は震えなかった。自分でも驚くほど、毅然とした響きを持っていた。


「私の場所は、ここにあります。私は、かつての私のように悲劇の中で迷子になる魂を救いたい。これからこの辺獄へ流れ着く魂たちに、物語を伝える『語り部』になりたいのです」


それは『ハムレット』という悲劇の枠組みを超えた、魂の救済への願い。


「それが、私の選んだ役割だから。あなたは、あなたの物語を生きるべきです」


ウィリアムは唇を噛み、なおも何かを言いかけた。だが、スカーレットの揺るがない瞳を見て、言葉を呑み込んだ。

彼女はもはや、彼が頭の中で描いた儚い幻影ではない。物語の枠を超え、独立した意志を持つ一人の存在としてそこに立っていた。


長い、長い沈黙。

やがて、ウィリアムはふっと力を抜いた。張り詰めていた糸が解けるように、彼は寂しげに、けれど誇らしげに微笑んだ。

差し出していた手をゆっくりと下ろす。


「……そうか。君は、君自身の物語を見つけたんだな」


「はい」


スカーレットは柔らかな微笑みを返した。

その瞬間、ウィリアムの輪郭が揺らぎだした。彼の体が、無数の光の粒子に包まれ始める。現世の重力が、生者である彼を強く呼び戻そうとしているのだ。


「さようなら、ウィリアム。あなたの物語が、世界を照らしますように」


「ああ、忘れない。君のことも、この場所のことも」


ウィリアムはスカーレットの笑顔を目に焼き付けるように、静かに、深く頷いた。その瞳には、別れの悲しみよりも、これから紡ぐべき壮大な物語への決意が宿っているように見えた。


光が強まる。圧倒的な輝きの中へ、彼の姿が溶けていく。

急速に分解されていく粒子は、まるで書きかけの原稿が風に舞うように、現世への奔流の中へと吸い込まれていった。


二人の世界はここで分かたれる。

けれど、それは永遠の断絶ではない。彼がペンを執る限り、そして彼女がここで語り続ける限り、二つの魂は物語を通じて共鳴し続けるだろう。


視界が白むほどの光の中、彼の存在が完全に消え去るその瞬間まで、スカーレットは祈るように彼を見送っていた。

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