Scene 3
灰色の空と荒野、どこまでも続く無彩色の世界を、不穏な水音が震わせた。
スカーレットは息を呑み、反射的に身を強張らせて後ずさる。それまで滑らかな絹のように静かだったレーテ川の川面が、突如として沸き立つように狂い始めていた。水泡が弾け、渦巻く濁流はまるで意志を持った生き物のように岸辺を食らおうとしている。
(何が起こっているの……?)
胸の内で警鐘が鳴り響く。この場所で何かが動く時、それは決して幸福な予兆ではない気がした。
だが、その予感を裏切るように、泡立つ水底から突き出されたものがあった。
それは流木でも瓦礫でもない。幽鬼のように白く、痩せ細った、紛れもない『人の手』だった。
スカーレットは目を見開き、凍りついたようにその光景を凝視した。
濁流を割って現れたのは、一人の少年だった。濡れた髪が頬に張り付き、痩せぎすの身体は水圧に押し潰されそうになっている。彼は必死の形相で咳き込みながら、泥まみれの岸辺へと爪を立てた。
その瞳。
スカーレットの視線が、少年の目と交錯する。そこには溺れる者の恐怖以上に、異様なほどぎらついた光が宿っていた。
――生きたい。
ただならぬ『生への渇望』が、泥を掻く指先から、充血した眼差しから、痛いほどに放射されている。
(……駄目、見過ごせない)
恐怖が足を竦ませようとしていたが、それ以上に、目の前で藻掻く命の痛みがスカーレットの魂を揺さぶった。彼女は震える足を踏み出し、崩れやすい岸辺の感触を靴底で確かめながら、重心を低く落とす。
そして、泥に塗れた少年の手に向かい、自らの白い手を差し出した。
「掴まって……!」
声になったかは分からない。けれど、藁にも縋るように宙を掻いていた少年の指が、スカーレットの手を捉えた。
冷たい。
川の水温がそのまま移ったような冷気と、湿った泥の感触。少年はスカーレットの温もりを命綱だと認識したのか、骨がきしむほどの力で強く握りしめてくる。
喉の奥から苦悶の音を漏らしながら、彼は全身を震わせ、泥濘から這い上がろうとしていた。
スカーレットは痛みを堪え、少年の手をしっかりと握り返す。
(この人は、生きようとしている)
華奢な腕に、ずしりと重い命の質量がかかる。泥に足を取られそうになりながらも、彼女は決して手を離さなかった。必死に生きようとする意志が、繋いだ掌を通じて電流のように流れ込んでくる。この熱量を、この孤独な世界で見捨てることなどできなかった。
「ん、ぐ……ッ」
互いの呼吸が荒くなる。スカーレットが引く力と、少年が這い上がる力が合わさり、ついに重い身体が泥濘から引き剥がされた。
少年は岸辺の硬い地面へと転がり込むと、緊張の糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。肺に入った水を吐き出すために、激しく咳き込んでいる。背中が波打つたびに、苦しげな音が灰色の空気に溶けていく。
スカーレットは乱れた呼吸を整えながら、その背中を案じるように見つめた。
助かってよかった――そう安堵した、次の瞬間だった。
ふと、少年が顔を上げた。
乱れた前髪の隙間から覗いたその瞳を見て、スカーレットは思わず息を呑んだ。
死の淵から生還したばかりだというのに、彼の瞳の奥には安息の色がない。まるで獲物を前にした飢えた獣のような、あるいは燃え尽きることのない炎のような光が、底知れぬ執着を湛えて揺らめいている。
(怖い……)
ただの遭難者ではない。
スカーレットは本能的に悟った。自分が引き上げたのは、もしかしたらこの静寂な世界にはあまりに不釣り合いな、凄まじい業を抱えた存在なのかもしれない、と。




