Scene 38
嘆きの森は、嵐が過ぎ去った後の海原のように凪いでいた。
かつて死者たちの悔恨を吸い上げ、天を呪うように捻じれていた木々は、いまや聖堂の列柱のごとく静まり返っている。
その静謐の中心に、スカーレットは一輪の白百合のように立ち尽くしていた。
自ら発した「私は祈りの形である」という宣言――その言葉の余韻が、波紋のように世界を書き換えていくのを肌で感じていた。復讐の道具ではなく、鎮魂の祈りとして生きる。その覚悟が、物理法則よりも心理が優先されるこの辺獄の空気を変質させたのだ。
眼前で猛り狂っていた亡霊――父王の姿を形作っていた黒い雷鳴と怒りの威圧が、朝霧が晴れるように音もなく霧散していく。
堅牢な甲冑、復讐を叫ぶ巨大な怪物の外殻が剥がれ落ち、そこに残されたのは、半透明で背の曲がった『悲しげな老人の影』に過ぎなかった。
王としての威厳も、復讐者としての怨嗟もない。そこにいたのは、娘の行く末を案じながらも狂気に蝕まれ、死してなお苦悩していた無力な一人の父であった。
老人の影は、憑き物が落ちたような安堵の表情でスカーレットを見つめ、弱々しく微笑んだ。
何かを言いかけた唇は音を結ぶことなく、その輪郭は光の粒子となってほどけ始める。金色の粉雪となった父の魂は、スカーレットの頬を撫でるように舞い、虚空へと優しく消えていった。
入れ替わるように、淡く発光していた柳の木が揺らいだ。
光の塊がゆっくりと人の形を成し、幹から分離する。現れたのは、オフィーリア。
その相貌には、かつて物語が強いた狂気の色も、被害者としての悲壮な影も微塵もなかった。理知的で、慈愛に満ちた眼差し。それは、スカーレットが夢に見ることさえ許されなかった『母』としての真の顔であった。
彼女は音もなくスカーレットへ歩み寄り、愛しい我が子の名前を紡ぐように唇を動かし、静かに両手を広げた。
スカーレットの瞳から、堪えていた涙が溢れ落ちた。
狂気という配役を脱ぎ捨てた母が、いま、ただの母としてそこにいる。思考よりも先に足が動いた。スカーレットは迷わず一歩を踏み出し、その開かれた腕の中へと身を投げ出した。
しかし――。
抱きしめられる、と予感した瞬間、スカーレットの体は抵抗なくオフィーリアの胸を通り抜けた。
物質的な衝撃は皆無。霊体である母には、娘を抱き止める物理的な肉体が存在しなかったのだ。
それでもオフィーリアは腕を下ろさず、すり抜けてしまったスカーレットの背に、光の腕を重ね続けた。
スカーレットは一瞬目を見開いたが、直後に全身を包んだ感覚に浸るように瞼を閉じた。
(すり抜けた……体は触れ合えない。けれど――)
冷たくは、ない。
物理的な接触がないにもかかわらず、陽だまりのような確かな温もりが、魂の輪郭から直接流れ込んでくる。それは皮膚で感じる温度ではなく、心の深奥を震わせる愛の熱量。
生者と死者、存在し得なかった娘と物語に殺された母。断絶されていたはずの魂同士が、いま『祈り』という定義によって奇跡的に接続されていた。
(これが、母さんの愛の温度……)
スカーレットは信じられないという表情で、光に包まれた母の顔を見上げた。
「お母……さん……?」
震える声に、オフィーリアは深く、どこまでも慈愛に満ちた微笑みを返した。言葉はいらない。その表情だけで、万感の想いは十分に伝わっていた。
視界の端で、ウィリアムがその場に立ち尽くしているのが見えた。彼もまた、目の前の光景に圧倒されているのだろう。震える手で口元を覆い、あふれ出る感情を必死に堪えるように、ただじっとこちらを見つめている。
役目を終え、娘に想いを託したことに満足したかのように、オフィーリアの姿が光の粒子へと変わり始めた。
森全体が、浄化の輝きに満たされていく。
スカーレットは、母が空気に溶けていく様を、瞬きもせずに見つめ続けた。
別れの寂しさはある。だが、それ以上に胸に残る魂の温かさが、彼女を支えていた。自分は愛されていたのだという確信が、孤独な心を清らかな光で満たしていく。
「……」
最後の光の一粒が森の静寂に溶け込むまで、スカーレットは静かに見送った。
やがて彼女はゆっくりと深呼吸をし、肺腑に森の清浄な空気を満たす。潤んだ瞳をしっかりと前へと向け、小さく、けれど力強く拳を握りしめた。
自分自身に言い聞かせるように、ひとつ頷く。
「ありがとう、お母さん。私は、きっと大丈夫」
もはや迷いはない。
スカーレットは、残された温もりを胸に、自らが為すべきことを果たすべく顔を上げた。




