Scene 35
嘆きの森の最奥、澱んだ水辺に佇むその柳は、樹木というよりも、苦悶に身をよじる巨大な女の彫像のようであった。
苔むした樹皮は、泥に汚れた豪奢なドレスを思わせる。枝垂れる無数の枝は、乱れ狂った長い髪のごとく湿った風に揺れ、腐敗臭と咽せ返るような甘い花の香りが、死と狂気の気配を濃厚に漂わせていた。
スカーレットは震える手を伸ばし、その幹へと触れた。
指先に伝わったのは、予想していた粗い樹皮の感触ではない。
冷たく、湿り気を帯びた、生々しい人間の肌の質感。
(これは木ではない……お母様そのものだわ)
全身が粟立つような、鋭利な拒絶の意思が掌を通じて突き刺さる。けれど、スカーレットはここで手を離してはいけないと直感していた。母の苦しみを和らげることができるのは、この血の繋がりだけなのだから。
触れた箇所から、奔流となってオフィーリアの記憶が流れ込んでくる。
泥にまみれ、無残に散らばる花束の鮮烈な色彩。
父ポローニアスの、血の気を失った冷たい骸。
そして、愛したはずの男、ハムレットから浴びせられた罵倒の響き――。
『尼寺へ行け』
「っ……」
魂を直接殴打されたような衝撃に、スカーレットは小さく呻き声を上げた。
痛い。苦しい。
世界はお母様を、これほどまでに追い詰めていたのか。
記憶の棘がスカーレットの心を切り裂き、膝が砕けそうになる。それでも彼女は歯を食いしばり、木から手を離さずに踏みとどまった。押し寄せる悲劇の奔流に抗い、泥濘の中に立つ葦のように。
その時、柳の木が激しく身震いした。
垂れ下がった枝が暴風に煽られたかのように狂乱し、周囲の木々さえもがざわめきだす。幹にある洞のような裂け目から黒い瘴気が噴き出し、スカーレットを拒絶するように渦巻いた。
樹皮の隆起が苦痛に歪んだ女の顔を形作り、虚ろな眼窩がスカーレットを睨みつける。
『嘘つき……! お前も私を裁きに来たのでしょう!?』
幹が軋み、人の声帯を模して悲痛に叫ぶ。
『「尼寺へ行け」と……ふしだらな女だと、私を責めるために来たのね……!』
背後では、若き詩人ウィリアムが手の中の折れた枝を杖のように握りしめ、痛ましげな表情で立ち尽くしている。彼には手出しのできない、母と娘だけの領域だ。
スカーレットは瘴気にその身を晒されながら、首を横に振った。
幹を抱きしめる腕に、ありったけの力を込める。
木の中に閉じ込められ、恐怖に震える母の魂へ届くように。まっすぐに木の中心を見据えて、彼女は声を張り上げた。
「いいえ、お母様……! 私はあなたを裁きになど来ません」
彼女の声は、湿った風を切り裂いて凛と響いた。
「誰が何と言おうと、私はあなたの罪なんかじゃない。私は……あなたの『願い』なんです。愛から生まれた、あなたの娘なんです!」
(伝わって……! 私は、あなたを断罪した社会や大人たちの代弁者じゃない。お母様が絶望の淵で、一瞬だけ夢見た希望の形なのだと)
スカーレットの口から放たれた言葉は、言霊となって世界を揺らした。
柳の木の激しい震えが、ふっと止まる。
周囲に渦巻いていた黒い瘴気が霧散し、強張っていた枝葉が力を失ってしなやかに垂れ下がった。幹に浮かんだ相貌から、狂気と恐怖に歪んだ表情が潮が引くように消え去り、あとには深い悲しみと、幼子のような戸惑いだけが残る。
その虚ろだった瞳に、一瞬だけ理性の光が宿った。
『……私……の……願い……?』
風の音が、問いかけるような囁きへと変わる。
樹皮の質感が拒絶の硬度を失っていくのを肌で感じ取り、スカーレットは深く、慈愛を込めて頷いた。目の前の母を、その罪も悲しみもすべて肯定するように。
「そうです。私は、あなたの愛です」
(届いた……。拒絶の殻が、少しずつ溶けていく。お母様、もう怖がらないで)
スカーレットは確信と共に、その温もりを受け入れていた。母と娘、本来ならば交わるはずのなかった二つの魂が、いま、この辺獄の地で静かに結ばれようとしていた。




