Scene 34
炎の舞台をあとにした一行を待ち受けていたのは、永遠に明けることのない薄暮と、肺腑を腐らせるような湿気であった。
足元に纏わりつく泥は、まるで腐肉のように柔らかい。冷気を孕んだ霧が肌を濡らすたび、生きた心地のせぬ寒気が背筋を這い上がる。
ヴィルギリウスの数歩先を行く灰色の背中――スカーレットは、その華奢な身を時折震わせながらも、鬱蒼とした闇の奥へと足を踏み出し続けていた。
風が吹く。梢がざあざあと、あるいはヒューヒューと鳴く。
いや、それは風鳴りではない。無数の喉が奏でる『啜り泣き』そのものだ。
鼓膜を直接やすりで削られるような不快感に、ヴィルギリウスは眉を顰める。スカーレットもまた、耳を塞ぎたい衝動に駆られたのだろう、肩を強張らせた。だが彼女は、小さく息を吸い込むと、その覆いたくなる耳をあえて晒したまま、泥濘を踏みしめて進んでいく。
なんと痛々しく、気高い姿だろうか。
ヴィルギリウスは視線を巡らせ、路傍に立ち並ぶ奇怪な樹木の一本を見上げた。
「……なんとも、悪趣味な森だ」
思わず、呻きに近い言葉が漏れる。
暗がりに浮かぶ幹の瘤。それは、苦悶に顔を歪め、天を仰いで硬化した人間の「顔」そのものであった。ねじれた幹は苦痛に身をよじる胴体であり、奇妙に垂れ下がった枝葉は、助けを求めて千々に乱れた指先や髪の毛である。
悟らざるを得ない。この森の木々は植物ではない。自ら死を選び、その瞬間の絶望に囚われたまま変異した「魂の成れの果て」なのだ。
生理的な嫌悪が胃の腑を焼く。詩神に見放されたようなこの地獄で、スカーレットは一体何を見つけようとしているのか。
ヴィルギリウスのぎらついた双眸は、彼女の安全を確保すべく、警戒を解くことなく森の奥へと向けられた。
やがて、重く澱んだ水辺が開ける。
鏡のように静まり返った水面は、死そのもののように暗く、底知れない。
その岸辺に、一本の柳が枝を垂らしていた。
「……ッ」
ヴィルギリウスは鋭く息を吸い込み、スカーレットの背後で身構えた。
あの柳だけが、異質だ。
周囲の「死人の木々」が放つ単なる苦痛とは違う。あれは、一人の女性の魂を半ば取り込み、同化し、悲哀と狂気をない交ぜにして発酵させたような、特異な気配を放っている。
静寂を装ってはいるが、あれこそがこの森の核だ。
スカーレット、迂闊に近づくなよ――。ヴィルギリウスが警告を発しようとした、その時だった。
風もないのに、ざわり、と柳の枝が震えた。
スカーレットの動きに呼応するかのように。
響いてきたのは、周囲の亡者たちの啜り泣きとは明らかに一線を画す音色だった。
『――あしたは、聖バレンタインの日……』
歌だ。
それは美しい旋律を伴いながらも、どこか調律の外れた楽器のように不安定で、狂気を孕んだ呟きだった。甘やかな恋の歌が、途切れ途切れのうめき声と混じり合い、不協和音となってスカーレットの精神を直接撫で上げる。
スカーレットの足が、縫い留められたように止まった。
全身に雷撃を受けたかのように、彼女の体が硬直し、次いで小刻みに震え出す。
理屈ではないのだろう。彼女の魂の奥底――「生まれなかった子供」としての根源が、その狂おしい歌声の主に感応したのだ。
彼女の頬を、大粒の涙が伝い落ちるのが見えた。
その刹那、奇跡のような現象が起きた。
森全体を覆っていた無数の啜り泣きや不協和音が、潮が引くように唐突に静まり返ったのだ。
世界から音が消え、ただ水辺の柳から漂う哀愁と、重苦しい静寂だけが残された。
まるで、役者が揃うのを待っていた舞台のように。
スカーレットは震える唇を開き、確信に満ちた言葉を、祈るように紡ぎ出した。
「これが……母さんだ……」




