Scene 32
轟音が、唐突にその呼吸を止めた。
第四階層『炎の舞台』を焼き尽くしていたあの荒れ狂う熱波が、潮が引くように急速に衰えていく。鼓膜を打ち震わせていた剣戟の残響が消え、後に残されたのは、肌を焦がす熱の名残と、痛いほどの静寂だけであった。
スカーレットは、息を呑んで目の前の男を見つめた。
デンマークの王子ハムレット。ほんの数瞬前まで、世界への呪詛を撒き散らし、黒い炎を纏ってウィリアムへ刃を向けていた復讐者。
しかし今、彼が突き出そうとした切っ先は、空中で凍りついたように止まっている。
「オフィーリア……? いや、違う……君は……なぜ……」
その唇から零れ落ちたのは、舞台上の英雄が放つ朗々たる台詞ではなかった。あまりにも頼りなく、震える吐息のような呟き。
彼が動きを止めた瞬間、空間を圧迫していた黒い炎もまた、主の迷いに呼応するかのように勢いを失った。まるで、この階層を構成する劫火そのものが、彼の殺意という燃料を失って枯れていくようだ。
熱源は物理的な炎ではなく、彼の激情であったのだと、スカーレットは肌で理解した。
ハムレットの瞳孔は極限まで開かれ、その焦点はスカーレットを映しながら、スカーレットの奥にある「何か」を見ていた。
狂気は消え失せていた。そこに浮かんでいたのは、深い哀愁と、取り返しのつかない過去への後悔。
復讐という名の厚い衣が剥がれ落ち、そこにはただ、愛する者を喪い、なすべきことを見失った一人の孤独な青年が立ち尽くしているだけだった。
「行くぞ、今が好機だ」
ヴィルギリウスの低く、しかし力強い声が静寂を破った。
歴戦の案内人は、ハムレットの殺意が途切れ、炎の結界が綻んだ一瞬を見逃さなかった。出口の方角を顎で示すと、彼はためらいなく歩き出す。
「彼が迷っている間にここを抜ける」
その合図とほぼ同時に、スカーレットの二の腕に強い痛みが走った。
ウィリアムだ。若き詩人は、スカーレットがまだ事態を飲み込めずにいるのを察し、その細い腕を強く掴んで歩き出したのだ。
「……っ」
ウィリアムに引かれるまま、スカーレットは足早にその場を離れる。ウィリアムは一度も振り返らない。彼女を守るように、ただ前だけを見て先を急いでいる。
だが、スカーレットの視線だけは、どうしても切ることができなかった。
首を後ろに向け、煙の晴れゆく舞台の中央に残された人影を見つめ続ける。
(炎が……消えていく?)
彼が剣を下ろしただけで、あれほど激しかった熱さが嘘のように凪いでいく。
今の彼の目は、狂人のそれではない。ひどく寂しそうで、まるで迷子の子供のようだった。
私を通して、誰を見ているの? 私という「生まれなかった器」の中に、誰の面影を見出して、彼は剣を止めたの?
ハムレットは、遠ざかる彼らを追おうとはしなかった。
何かを叫ぼうとして口を開き、けれど声にはならず、再び唇を閉ざす。
弱々しく揺らぐ残り火と煤煙の中で、剣をだらりと下げたまま、彼は深い孤独の中に置き去りにされていた。その背中はあまりにも小さく、復讐劇の主役には不似合いなほどに人間臭く見えた。
胸が締め付けられるような痛みを覚えながら、スカーレットはウィリアムに引かれ、熱のない道へと足を踏み入れていった。




