Scene 30
第四階層「炎の舞台」。憎悪を燃料として燃え盛る業火が、空間そのものを歪ませながら円形劇場を取り囲んでいた。その熱気と轟音が支配する世界の中心、スポットライトのように炎が開けたその場所で、黒い炎がひと際高く渦を巻いた。
不定形だった影が、明確な輪郭を結ぶ。現れたのは、高貴な顔立ちをした一人の男だった。
男は周囲を焦がす炎など意に介さず、そこに佇むスカーレットのことなど、まるで道端の石であるかのように認識していない。彼の瞳は、狂気と知性が冷たく混濁し、ただ一点、ウィリアム・シェイクスピアだけを射抜くように見据えていた。
「ウィリアム、貴様が私を創造したというのか?」
朗々とした、しかし底冷えする声が響く。
「ならば、見せてもらおう。貴様が私、ハムレットを、いかなる英雄として、あるいは道化として描くつもりなのか」
ハムレットはさらに一歩、ウィリアムへと踏み出した。その顔には狂気を帯びながらも、どこか恍惚とした色が浮かんでいる。揺らめく炎が彼の影を歪ませ、彼自身がこの業火の一部であるかのような錯覚を抱かせた。
「ウィリアム、答えろ。貴様は私を、ただの復讐者として描くのか? それとも、腐敗に抗う高潔な哲学者として、永遠に語り継がれるべき英雄として描くのか? 答えによっては、貴様の創造主としての慢心もろとも、ここで灰にしてくれるぞ!」
ウィリアムは、その狂気を孕んだ視線から逃げなかった。ペンを持つ手を白くなるほど強く握りしめ、静かに、しかし確固たる意志を持って対峙する。彼は言葉を選ぶように一呼吸置き、真摯に告げた。
「ハムレット、私はあなたを英雄として描くつもりはありません。また、ただの復讐者として断罪するつもりもありません」
若き詩人の声は、轟音の中でも凛と響いた。
「私が描きたいのは、あなたが抱える矛盾、苦悩、そして、その中で見出そうとした真実です。それが、あなた自身の物語だと信じているからです」
そのやり取りを傍らで見つめていたスカーレットは、吸い寄せられるように一歩、父に向かって足を踏み出した。
目の前の男は、確かに彼女の父、ハムレットだ。幼い記憶の中の面影と、寸分違わず重なる。
けれど、足を止めた。
父の瞳には、スカーレットが映っていない。まるで彼女が透明な幽霊ででもあるかのように、視線が素通りしていく。
胸が高鳴ると同時に、氷水を浴びせられたような寒気が心臓を締め付けた。耐え難い孤独が、熱気の中で彼女を震わせる。
ハムレットはウィリアムの言葉を聞くと、嘲るように鼻を鳴らした。激昂の色を浮かべ、さらに距離を詰める。その動線の先にいるスカーレットになど目もくれず、彼女をただの空間として扱いながら、彼は右手を伸ばした。ウィリアムが握るペン――物語を決定づける権能――を掴もうとする。
「矛盾だと? 苦悩だと? 貴様の凡俗な言い訳に、私の運命を貶めるな!」
叫びと共に、父の激情が空気を震わせた。
「私こそが、腐敗に抗う唯一の光だ! さあ、ペンを執れ、ウィリアム! 私が如何なる英雄であるか、永遠に語り継がれるべき、完璧な悲劇を記録するのだ!」
ウィリアムは咄嗟に身を翻し、伸ばされた手をかわして後ずさった。ペンを持つ手を庇い、ハムレットとの距離を取る。
スカーレットは、ウィリアムに掴みかかろうとする父の背中を見つめた。小さな体が強張る。今にも泣き出しそうな顔で、それでも声を絞り出した。
「お父様……!」
震える声は、父に届くだろうか。父は私を見ていない。ウィリアムという「作者」に気を取られ、私という娘の存在を認識すらしていない。このままでは、父との繋がりは永遠に失われてしまうかもしれない。恐怖と悲しみが胸を締め付けるが、それでも、父に自分の存在を知ってほしかった。
スカーレットの声が鼓膜を打った瞬間、ハムレットの眉がわずかに跳ねた。
だが、それは再会への感動ではなかった。
彼は苛立ちを隠せない表情を浮かべると、スカーレットに視線を向けることすらせず、無造作に片手を払ったのだ。
まるで、耳元で羽音を立てる煩わしい虫を追い払うかのように。
そしてすぐにウィリアムへ向き直り、逃げ腰の詩人を射抜くように見据えた。
「ペンを執れ、ウィリアム! これは命令だ! 私の物語を、真実を、世界に刻み込むのだ!」
ウィリアムは踏みとどまり、ハムレットの狂眼をまっすぐに見つめ返した。震えるペンを握りしめ、必死に己の冷静さを保とうとする。
「それが、あなたの真実ですか? スカーレットへの眼差しも向けず、ただ己の正当性のみを主張する。それこそが、あなたが描きたい物語なのですか?」
「感傷など不要だ、ウィリアム!」
ハムレットはウィリアムの問いを鼻で笑い飛ばした。スカーレットを一瞥もしない。彼女を、自身の物語に混入した不要な『不純物』として切り捨てていた。
彼はウィリアムに詰め寄り、ペンを奪わんと手を伸ばす。
「個人の感情、家族の情愛など、歴史に残る『偉大な悲劇』の前では塵に等しい! 私の偉大さだけを書き記せ! さあ、ペンを執れ!」
父の言葉が、物理的な衝撃となってスカーレットを打った。
足から力が抜け、膝が床につく。灰色の粗末な服が、熱気を帯びた床に擦れた。
「お……お父様……、私……」
言葉が続かない。お父様の言葉が、まるで氷の刃のように心を切り裂いていく。家族の情愛など塵。私を見ようともしない、その冷酷な瞳。
これが、私の父なの? 信じたくない。でも、胸を焼くこの痛みが、これが紛れもない現実だと教えている。立っていられないほどの絶望が、彼女を小さくうずくまらせた。
ハムレットは、ウィリアムの頑なな態度に嘲笑を深めながら、伸ばした手をさらに強く握り込んだ。スカーレットには一瞥もくれず、彼女の存在を完全に無視したまま、ウィリアムからペンを奪い取ろうと執拗に迫る。その目は狂気に染まりきり、もはや交渉の余地など残されてはいなかった。
「黙れ、ウィリアム! 貴様のような凡人に、私の悲劇の深淵が理解できるはずがない! スカーレットなど、歴史の屑だ! ペンを渡せ! 私の物語を書き記すのだ!」
ウィリアムは、ハムレットが伸ばしてきた手を咄嗟に避け、ペンを胸元に抱くようにして守った。恐怖を乗り越え、詩人は強い眼差しでハムレットを見据える。
「いいえ、ハムレット。それは真実ではありません」
ウィリアムの声には、創造主としての矜持が宿っていた。
「あなたが語るのは、英雄の物語ではなく、ただの妄執です。スカーレットは、あなたの物語の一部です。彼女の存在を否定することは、あなた自身の物語を歪めることと同じです。私は、あなたの妄執に加担することはできません」




