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果てしないスカーレット  作者: 細田衛
26/41

Scene 25




第三階層、「鏡の間」。

そこは、美しくも冷徹な無限の回廊だった。


床も壁も、磨き抜かれた鏡面で覆われている。どこを見ても虚像が虚像を映し返し、永遠に続く冷たい迷宮を作り出していた。空気は死んだように静止しており、肺を満たすのは硝子の粉のような鋭い匂いだけだ。


スカーレットは、肌を刺す冷気の中、吸い寄せられるように広間の中央へと足を進めた。

曇りのない巨大な鏡が、彼女の目の前に立ちはだかる。

だが、そこに映し出されたのは、スカーレット自身の姿ではなかった。鏡面が水面のようにとろりと揺らぎ、物理的な反射とは異なる光景を結び始めていたからだ。


(この鏡は、ただ姿を映すだけのものではない……)


胸の奥がざわめく。予感めいた戦慄が背筋を駆け上がる。

あそこに見え始めた光景、あれは一体何なのだろうか。


鏡の前には先客がいた。第三階層の主、王妃ガートルードである。

彼女は先ほどまで、うっとりと鏡の中の己に見惚れていたようだった。しかし、鏡面の変化と背後の気配に気づき、不快そうに柳眉を寄せて振り返る。その瞳には、自分の聖域を侵された苛立ちが滲んでいた。


スカーレットは彼女の視線を無視し、揺らぐ鏡の中を覗き込んだ。

次の瞬間、彼女は息を呑んだ。


そこに映っていたのは、鮮明な「幻影」だった。

豪奢な衣装を着飾り、憂いを帯びた美貌を保つ現在のガートルードではない。

そこには、年相応に皺を刻み、穏やかな慈愛に満ちた「老婆となったガートルード」がいた。そして、その腕の中には、スカーレットの面影を持つ幼子が抱かれていたのだ。


老婆は、この世で最も尊い宝物を見るような目で、幼いスカーレットを抱きしめていた。

それは、現実には決してあり得なかった光景。誰も死なず、狂わず、ただ健やかに時を重ねた先にあったかもしれない未来。

残酷なほどに美しく、幸福な光景だった。


「これが……誰も死ななかった場合の、私たち……?」


スカーレットの唇から、震える声が漏れる。

あまりにも温かく、優しい世界。

私が――私たちが、本当は手に入れるはずだった未来なのか。

「生まれなかった子供」としての空虚な胸が、張り裂けそうなほどの羨望と痛みで満たされていく。


その時、スカーレットの背後から静かな靴音が響いた。

ウィリアムだ。若き詩人は、鏡の中の幸福な幻影を、冷徹な観察者の目で見つめていた。彼は手帳にさらさらとペンを走らせながら、立ち尽くすガートルードに向けて淡々と告げた。


「実に興味深いですね」


ウィリアムの声は、詩を朗読するように滑らかで、それでいて氷のように冷たかった。


「罪人にとって、罰とは肉体的な痛みなどではなく、『あり得たかもしれない幸福』の提示であるらしい。平和な可能性こそが、貴女にとっては最も残酷な毒となるのですね」


その言葉は、王妃の急所を正確に射抜いたようだった。

ガートルードの顔から血の気が引いていく。

鏡に映る「自らが捨てた幸福な未来」と、ウィリアムの無慈悲な解釈。それらに耐えきれず、王妃は髪を振り乱して絶叫した。


「いや……見るな! そんなものは嘘だ!」


彼女は近くにあった重厚な燭台を掴むと、力任せに鏡へと叩きつけた。


「私は選べなかったのだ! あぁぁぁっ!!」


激しい破砕音が広間に響き渡る。

鏡が蜘蛛の巣状にひび割れ、美しい幻影が粉々に砕け散った。

スカーレットは反射的に身をすくませる。床に散らばった無数の鏡の破片。その一つ一つには、まだ断片的に「笑顔の老婆」が映っており、それが今のガートルードの悲痛な姿と重なって、万華鏡のような狂気を描き出していた。


「ガートルード様……!」


スカーレットは悲鳴に近い声を上げた。

目の前で肩で息をする王妃は、あまりにも脆く、哀れだった。


(彼女は、幸せな未来を拒絶した……?)


なぜ、とスカーレットは問う。

自ら手放した可能性を直視できず、叫び声を上げて鏡を割る。

その姿を見て、スカーレットは理解した。彼女の罪は、誰かを害する悪意ではない。現実から目を背け、見たくないものを封じ込めようとする「弱さ」そのものなのだと。


冷たい鏡の破片の上で、砕かれた幸福の幻影が、静かに明滅していた。

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