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果てしないスカーレット  作者: 細田衛
25/41

Scene 24



第一階層の「形式」、第二階層の「監視」を抜け、彼らが足を踏み入れたのは、静寂と冷気が支配する第三階層だった。


そこは、無数の鏡が立ち並ぶ巨大な広間だった。互いを映し合う鏡面は無限の回廊を創り出し、どこまでが実像で、どこからが虚像なのか、境界線は曖昧に溶け合っている。荘厳でありながら、その美しさはどこか空虚で、血の通わない冷たさを湛えていた。


先導するヴィルギリウスが足を止め、広間を見渡しながらゆっくりと口を開いた。


「ここは『鏡の間』。無数の鏡が互いを映し、視覚的な錯覚を生む場所だ」


彼の厳かな声は、硬質な床に反響し、幾重にも重なって聞こえる。


「甘い香りに気をつけろ。油断すれば、容易に迷い、あるいは……呑み込まれるだろう」


スカーレットは眉をひそめた。ヴィルギリウスの忠告にある通り、この空間にはむせ返るような匂いが充満している。それは古びた白粉おしろいの甘ったるい香りであり、長い時間を経てえた、腐った菓子のような不快さを伴っていた。


(気が遠くなりそうだわ……)


スカーレットは鼻を覆いたくなる衝動を抑え、ウィリアムに向かって小さく頷いて見せた。二人は巨大な鏡の陰に身を滑り込ませ、この異様な空間のぬしであろう人物の背中を窺った。


豪奢な化粧台の前で、一人の女性が鏡を食い入るように見つめている。

豪奢なドレスを纏ったその背中は、ずいぶん小さく、そして老いて見えた。彼女は何かに取り憑かれたように、動こうとしない。


「私は悪くない……あれは国の安定のためだったのよ」


老婆の唇から、うわごとのような言葉が漏れ落ちる。


「民のため、王家のため……私には他に選択肢はなかった。そう、この変わらぬ美しさこそが、私が正しかった証……」


老婆――かつて王妃と呼ばれたガートルードは、震える手で自身の顔にパフを叩き続けていた。

スカーレットは息を呑んだ。鏡の中に映る彼女の顔は、奇妙なほど若々しく、陶磁器のように滑らかで艶やかだったからだ。しかし、パフを握る現実の彼女の手は、枯れ木のように細く、節くれ立ち、小刻みに震えている。

その対比はあまりに異様で、まるで美しい仮面の下で何かが腐敗しているかのようなグロテスクさを孕んでいた。


自身の正当性を確かめるように、ガートルードは首元の真珠に触れた。だが、老いに蝕まれた指先は本人の意思に反して震え、力加減を誤ったのだろう。


ブチリ、と糸が切れる音がした。


真珠の粒が床に散乱し、硬く乾いた音を立てて転がっていく。ガートルードは過剰なほどに肩を跳ねさせ、まるで汚物でも見るような目で、床の真珠を睨みつけた。


「違う……違うわ! 私の手がこんなに動かないはずがない。私はまだ、こんなにも完璧なのに……!」


彼女は叫んだ。鏡の中の若く美しい幻影に向かって、救いを求めるように。


「誰? 誰が邪魔をしたの?」


スカーレットの傍らに寄り添っていたウィリアムが、冷ややかな眼差しを老婆へと向けた。彼はスカーレットにだけ聞こえるような声で、静かに囁く。


「よく見ろ。あそこの鏡は現実を映していない」


ウィリアムは、老婆の実像と、鏡の中に君臨する若き王妃の像を交互に指差した。


「あれは彼女が望む『都合の良い若さ』だけを映し出す、選別された反射だ。彼女は虚構だけを信じているんだよ」


スカーレットはウィリアムの言葉に従い、改めて老婆の姿を凝視した。

確かにそうだ。鏡の中の彼女は、かつての栄華をそのままに留めている。しかし、椅子の背に凭れる実物は、罪悪感と老いに押しつぶされそうなほど小さく、惨めだ。


(本当だ……。鏡の中の彼女はあんなに若いのに、実物はまるで別人みたいに老け込んでいる)


スカーレットの胸に、冷たい納得が広がっていく。

「生まれなかった」がゆえに存在が希薄な自分とは対照的に、あの女性は確かな重みのある「現実」を持ちながら、そこから全力で目を背けている。


(彼女は鏡に映る『嘘』に縋って、現実の自分を殺し続けているんだわ)


ガートルードは、散らばった真珠という「老いの現実」を視界から消し去ろうとするかのように、慌てて紅筆に手を伸ばした。

しかし、焦燥感に駆られた手元は狂い、紅筆は滑り落ちて化粧台に叩きつけられた。


カアンッ――。


硬質な音が、静寂な鏡の間で異常なほど大きく響き渡り、張り詰めた空気を切り裂いた。ガートルードの動きが凍りつく。


その音を合図に、鏡の陰からヴィルギリウスが静かに歩み出た。

彼はガートルードの背後に立ち、彼女の実像と、鏡の中の虚像を交互に見やった。その瞳には、断罪者の冷徹さと、迷える魂への憐れみが同時に宿っていた。


「鏡に映るは、選別された反射」


ヴィルギリウスの声が、老婆の背中に重くのしかかる。


「目を背けた先にこそ、現実が横たわる。いつまで、虚像に縋り続けるおつもりか」

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