Scene 20
薄暗い回廊の空気は、澱んだ水のように重く、冷たい。
第二階層『監視と陰謀の回廊』。壁面を埋め尽くす無数の「目」が、まばたきもせずスカーレットを見下ろしている。その隙間には、誰が誰を愛し、何を囁いたかという卑俗な報告書が隙間なく貼り付けられ、カサカサと乾いた音を立てていた。
スカーレットは、震える唇で告げたばかりの「真実」の余韻の中に立ち尽くしていた。自分はハムレットとオフィーリアの間に宿るはずだった、生まれなかった子供であると。
しかし、目の前の老人は、その告白を受け止めようとはしなかった。
かつてデンマークの宰相であったポローニアスは、スカーレットの懇願するような眼差しを、氷のような一瞥で一蹴した。彼にとって、目の前に立つ少女の涙など、壁の染みほどの意味も持たないようだった。
彼は顔色一つ変えず、山積みの書類から一枚の羊皮紙を取り出すと、事務的にペンを走らせ始めた。まるで、スカーレットなど最初から存在しないかのように。
「……そのような戯言を信じるほど、私は耄碌してはおらん」
羽ペンが羊皮紙を引っ掻く音が、神経質なリズムで響く。
「お前の出自などどうでも良い。ただ、この階層の秩序を乱すな。それが私の命令だ」
その言葉には、血縁への情など微塵も含まれていなかった。あるのはただ、管理と支配への渇望のみ。
スカーレットの顔から、さっと生気が失われていく。大きな瞳から希望の光が消え、代わりに深く、静かな悲しみが広がった。彼女は震える指先で、自身の灰色のスカートをぎゅっと握りしめる。
「届かない……何も、届かないのね……」
彼女の呟きは、誰の耳にも届かず、回廊の闇に吸い込まれた。
(秩序と支配……それがこの人の全てなのね)
スカーレットは心の中で、自分を嘲笑った。
(私の中に、ほんの少しでも『祖父』という家族の温もりを期待した私が愚かだった。ここには、血の通った真実なんてない)
傍らで様子を見守るウィリアムもまた、痛ましげに眉をひそめている。だが、ポローニアスの狂気は、さらに加速していった。
彼は書類にペンを走らせながら、顔をしかめ、苛立ちを隠せない様子で首を左右に激しく振り始めた。自身の築き上げた完璧な世界に、異物が混入したことへの拒絶反応だ。
ついには書きかけの書類を机に叩きつけ、保身のために声を荒げた。
「ありえん、断じてありえん! オフィーリアは純潔だ! 王子との関係など、私の完璧な報告書には記載されていない!」
唾を飛ばして叫ぶその姿は、威厳ある宰相ではなく、ただの怯えた老人だった。
「私の監視網に抜け穴などないのだ! これはただの狂言だ! 何者かの陰謀に違いない!」
彼はスカーレットの存在そのものを「エラー」として処理しようとしていた。彼の目には、実の娘も、苦悩する王子も映っていない。彼らはただ、国という盤上を動く、顔のない『駒』でしかないのだ。
再び書類に向き直ったポローニアスは、ブツブツと独り言を呟きながら、震える手で猛烈な勢いで何かを書き連ね始めた。ペンを握る力が強すぎて、羊皮紙が悲鳴を上げるように破れていく。
彼は現実から逃避し、自らの妄想の殻へと閉じこもっていく。
「秩序が……秩序こそが全てだ。駒は駒らしく動けばよいのだ……。娘も、王子も、私の描いたシナリオ通りに機能せねばならん。狂いなど……あってはならない」
スカーレットはゆっくりと顔を上げた。
書類に憑りつかれたように書きなぐる老人の背中を、静かに見つめる。
その瞳にもはや怒りはなかった。あるのは、狂気に蝕まれた老人への深い哀れみと、永遠に分かり合えないという冷徹な諦観だけだった。
「お祖父様……もう、いいの」
スカーレットの声は、鈴の音のように澄んでいて、けれどひどく寂しかった。
(彼はもう、真実を受け入れることができない。私という『想定外の事実』を拒絶することでしか、彼の脆い精神と秩序を守れないのだわ)
壁の無数の目が、嘲るように二人を見下ろしている。
ポローニアスは「ありえん」と繰り返し、破れた羊皮紙にインクを滲ませ続ける。その姿はあまりにも哀れで、滑稽だった。
スカーレットは、小さく息を吐いた。
(私は、この狂気の外側に進むしかない)
彼女は踵を返した。その背中は、来た時よりも小さく、けれど確かな意志を宿していた。
『生まれなかった者』としての孤独を抱きしめ、彼女は次の闇へと歩み出す。後ろで響くペンの音だけが、虚しく回廊に木霊していた。




