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果てしないスカーレット  作者: 細田衛
20/41

Scene 19




インクと古紙の匂いが、澱んだ空気のように回廊を満たしていた。

壁に描かれた無数の「目」に見下ろされる薄暗い通路。第二階層『監視と陰謀の回廊』は、常に誰かの視線を感じさせる息苦しい圧迫感に包まれている。


その回廊の奥、うず高く積まれた書類の山の中心に、一人の老人がいた。


老人は一枚の古びた羊皮紙を取り上げ、目を細めて凝視していた。インクの染みに宇宙のことわりでも隠されているかのように、顔を近づけ、また遠ざける。独り言が、乾いた唇から漏れ出した。


「ふむ……『真実の口は沈黙し、偽りの舌が踊る時』……これは……これはまさか……」


老人は咳払いを一つ落とし、周囲の壁に無秩序に貼られた密告書と、手元の羊皮紙を見比べた。


「……いや、まだ早まるな。証拠が足りん」


その時、老人の視線がふいに動き、こちらを捉えた。

書類の山から顔を上げた彼は、スカーレットとウィリアムを射抜くように睨みつけた。細められた双眸には、あからさまな警戒の色が宿っている。彼は手に持った羊皮紙をくしゃりと握りしめ、身を固くした。


「誰だ? どこの手の者だ! 密偵か?」


老人の視線はスカーレットとウィリアムの間を忙しなく往復する。彼は懐から素早く小さな手鏡を取り出すと、自身の背後に潜む「見えざる敵」がいないかを確認した。


「おほん! 貴様ら、そこで何をしている! この神聖なる回廊に何の用だ? 素性を明かせ! さもなくば、ただでは済まさんぞ!」


芝居がかった過剰な警戒心。その滑稽なほどの防衛本能に対し、隣に立つウィリアムは恐怖するどころか、呆れたように小さく肩をすくめた。

その眼差しは、出来の悪い喜劇を客席から眺める批評家のように冷ややかだ。彼はこの老人の配役キャラクターを、その本質を、とっくに看破しているのだろう。


ウィリアムの冷笑的な態度は、老人の神経を逆撫でしたらしい。彼は不快げに眉をひそめると、さらに警戒の度合いを強めた。

老人の視線が、スカーレットに移る。彼女の顔立ちを値踏みするようにじっくりと観察し、手鏡を弄びながらも、威圧的な態度は崩さない。


「……ふん、仲間割れか? それとも、何か企んでいるのか? 良いだろう。まずは貴様らの『自白』を聞いてやろう」


老人は咳払いをし、その場を支配しようと声を張り上げた。


「そこで突っ立っていないで、さっさと名乗れ! そして、この回廊に何の用があるのか、事細かに説明しろ! 一つでも嘘をつけば、ただでは済まさんぞ!」


彼はスカーレットに視線を固定したまま、手鏡で背後の虚空を油断なく警戒し続けている。コツ、コツ、と彼が持つ杖が床を打ち、威圧的なリズムを刻んだ。


「良いだろう、小娘。貴様から聞かせてもらおう。さあ、その美しい唇で語るがいい。だが、忘れるな。嘘はすぐに暴かれる」


問い詰められたスカーレットは、老人の顔をじっと見つめ返した。

しわが刻まれた偏屈そうな表情。その奥に、理屈ではない何か――自分と繋がる血の気配を感じ取っていた。

緊張に喉が張り付きそうになる。けれど、逃げ出すわけにはいかない。スカーレットは一つ息を呑み、意を決して一歩前へと進み出た。


(お祖父様……私の存在を、どうか受け入れて)


震える心を叱咤し、彼女は老人の目を真っ直ぐに見返して告げた。


「私はスカーレット。……あなたの娘、オフィーリアの娘。そして、あなたの孫です」


その言葉が落ちた瞬間、時間は凍りついた。


老人は雷に打たれたように動きを止めた。計算高く、狡猾に見えた表情が音を立てて崩れ去り、ただの驚愕へと塗り替えられていく。

彼が管理し、支配しようとしていた完璧な計画の中に、突如として現れた致命的なバグ。

力が抜けた老人の腕から、抱えていた大量の報告書や密書がバサバサと滑り落ちた。紙束は舞い散る雪のように床へ散乱したが、彼はそれに見向きもせず、ただ呆然とスカーレットを見つめている。


重苦しい沈黙が、回廊を満たした。

スカーレットは床に散らばった書類には目もくれず、身じろぎ一つせずに老人の目を見つめ続けた。


(私の名前を、私の血の繋がりを、伝えなければ)


彼の瞳の奥に、一瞬でも「私」という存在を映してくれることを祈るように、彼女はただ静かに、その場に立ち続けていた。

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