Scene 18
澱んだ空気が、湿った舌のように肌にまとわりつく。
辺獄の深淵へ続く回廊は、静寂よりも重苦しい気配に満ちていた。スカーレットは身を縮め、壁面から目を逸らすようにして歩を進める。
壁の至る所に描かれた、無数の「目」。それは単なる意匠や絵画の類ではなかった。瞳孔の奥に粘着質な光を宿し、通路を行く者をねっとりと追従するそれらは、獲物の急所を見定める捕食者の眼差しそのものだ。
(ただの絵じゃない……。皮膚の裏側まで舐め回されているような、酷い悪寒)
生理的な嫌悪と、喉元までせり上がる吐き気。スカーレットは自身の存在が、巨大な獣の前で震える小動物に成り下がったかのような錯覚を覚えた。早く逃げなければ、視線そのものに食い殺される――そんな不条理な予感が背筋を凍らせる。
だが、傍らを歩くウィリアムは、そんな彼女の恐怖など意に介さない様子だった。
彼は不意に足を止めると、壁を隙間なく埋め尽くしている古びた紙片の一枚に手を伸ばした。壁紙のように幾重にも貼り重ねられたそれらは、長い年月を経て黄ばみ、饐えた臭いを放っている。
「くだらん」
ウィリアムは紙片の内容を一瞥するや、鼻を鳴らして冷笑した。
「『誰が誰の寝室に忍び込んだ』だの、『誰が宴の席で不敬な愚痴をこぼした』だの……。国家を揺るがす機密かと思えば、市井の端した金のような噂話ばかりだな」
ウィリアムの言葉に、スカーレットは恐る恐る、彼が剥がしかけた紙片を覗き見た。
そこには、乱れた筆跡で卑猥な密告や、個人的な恨みつらみが書き連ねられている。誰かの情事、誰かの失言、誰かの醜聞。
スカーレットは眉をひそめた。世界中から監視され、あることないこと囁かれているような閉塞感が胸を塞ぐ。
(こんな、誰かの悪口みたいな紙で、壁が埋め尽くされているの? 気持ち悪い……)
ウィリアムは手にした密告書を、まるで汚物であるかのように指先で弾き、闇の中へ投げ捨てた。そして、詩人が舞台上で悲劇の幕開けを告げるように、大仰に両手を広げて回廊の奥を指し示した。
「歓迎しよう、スカーレット。ここが第二階層『監視と陰謀の回廊』だ」
その声は朗々としていながら、どこか冷ややかだった。
「ここは確固たる『事実』によって作られた場所ではない。他人の視線と、不確かな『噂』によってのみ構築された、相互監視の地獄だよ」
『監視と陰謀』――その言葉が耳に届いた瞬間、壁の「目」がいっせいに瞬きをしたように感じられた。
スカーレットは身震いし、ウィリアムの背中に隠れるように身を寄せた。頼りない布の感触だけが、唯一の救いだ。
「……誰かが見ているんじゃなくて、私たちが『見られていること』自体が、この場所を作っているの?」
スカーレットの問いは、湿った空気に溶けていく。
ここは物理的な空間というよりも、誰かに見張られているという「不安」そのものが凝固してできた迷宮なのだ。
(早くここを抜けないと、私が私でなくなってしまいそう)
無数の視線と無責任な言葉に晒され続ければ、やがて自分という輪郭さえも、他人の噂話によって書き換えられてしまうのではないか。
「生まれなかった者」であるスカーレットにとって、それは死よりも恐ろしい、存在の喪失を意味していた。




