Scene 12
忘却の川、レーテのせせらぎは、もはや遠い記憶の残響のようにしか聞こえなかった。
乾いた風が吹き荒れる辺獄の荒野。色彩を剥奪された灰色の石と土の上を、先導者ヴィルギリウスの影が滑るように進んでいく。スカーレットとウィリアムは、その背中を追うことしかできない。彼女が自らの血脈――狂気の王子ハムレットと、水底へ沈んだオフィーリアの娘であること――を知った衝撃は、まだ胸の内でさざ波を立てていた。
不意に、ヴィルギリウスが足を止めた。
彼が見据える先には、世界そのものを遮断するかのように、深く白い霧が立ち込めていた。それは単なる気象現象ではなく、存在を希釈し、すべてを飲み込まんとする巨大な意志のようにも見えた。
詩聖はゆっくりとこちらへ振り返り、その灰色の瞳で二人を射抜いた。
「魂の救済、あるいは真実への到達には、この先にある各階層を巡る『冥界巡礼』が必要だ」
厳かな宣告が、乾いた空気に溶け込む。
スカーレットは眼前の白亜の壁を見つめた。その奥底から漂ってくるのは、物理的な密度を持った圧迫感だった。肌が粟立つ。彼女は小さく身震いをし、胸元の生地を強く握りしめたまま視線を落とした。
(魂の救済、真実への到達……)
ヴィルギリウスの言葉は、石のように重く胸に響く。けれど、目の前の霧は底なしの闇よりもなお恐ろしく、私という存在の輪郭を消し去ろうとしているようだ。怖い。とても怖い。
恐怖に足がすくみ、鉛が入ったように動かない。この先に進む資格など、生まれ落ちることさえなかった私にあるのだろうか。
その時、横にいたウィリアムが動いた。
彼はスカーレットの小刻みな震えを観察するようにじっと見つめると、躊躇いなく一歩、前へと踏み出した。そして、あたかも舞台の上にいるかのように芝居がかった仕草で胸を張り、白い虚無に向かって両手を広げたのだ。
「恐れることはない」
若き劇作家の声は、荒野に朗々と響いた。
「君の物語が悲劇か喜劇か、この俺、ウィリアムが『観測者』として最後まで見届けてやる」
その傲慢ともとれる宣言に、スカーレットは顔を上げた。
『観測者』。物語を紡ぐ者が、物語を持たぬ者を見守るという誓い。
ヴィルギリウスもまた、静かにその様子を見守っていたが、二人の視線が前に向いたことを確認すると、再び霧の方へと向き直った。
「迷いを捨て、進むべき時だ。この霧の先に広がるのは、魂が彷徨う深淵。君たちが求める答えも、またそこにある」
穏やかだが、拒絶を許さぬ口調で案内人は促した。
スカーレットはウィリアムを見た。彼の瞳には、迷いなき自信が宿っている。その熱に触発され、こわばっていた彼女の表情がわずかに緩んだ。
彼女は小さく息を吸い込み、未だ消えぬ震えを意志の力で抑え込むと、ゆっくりと一歩、霧の方へ足を踏み出した。
「……ありがとう」
ウィリアムの言葉と、その力強い瞳に、少しだけ勇気づけられた気がした。不安が消えたわけではない。けれど、ここで立ち止まっていては、永遠に「何者でもない」ままだ。自分の物語を見つけなければならない。たとえそれが、どんな結末を迎えるとしても。
スカーレットの決意を受け取ったヴィルギリウスは、小さく頷くと踵を返した。迷うことなく、深く白い霧の中へと歩き出す。
二人もそれに続く。
霧の境界を越えた瞬間、世界が一変した。
それまで頬を打っていた乾いた風は止み、代わりに湿り気を帯びた、冷たく重い空気が肌にまとわりついてくる。まるで死者の吐息の中を進むようだ。周囲の荒野の色彩は徐々に白く塗りつぶされ、三人の姿は深淵への入り口へと溶けていった。




