Scene 11
鉛色の空の下、レーテ川は重く濁った水を湛え、死んだ獣のようにのたうっていた。吹き抜ける風は冷たく、物理的な体温ではなく、魂の奥底を直接撫でるような悪寒をもたらす。
この荒涼とした世界にあって、若き詩人の悲鳴だけが異質に響き渡っていた。
「ハムレット……オフィーリア……墓堀り……エルシノア! 違う、違うんだ! これは、僕の物語じゃない!」
ウィリアムは濡れた髪を振り乱し、両手で頭を抱え込むようにして、川べりの砂利に膝をついていた。その焦点の定まらない瞳は、ここには存在しない幻影を必死に追いかけるように、小刻みに痙攣している。
スカーレットは、その狂気じみた激情に圧倒され、思わず息を呑んで一歩後ずさった。
(ウィリアムの様子がおかしい。一体何が起こっているの?)
彼が口にする名前――クローディアス、ガートルード、ポローニアス――それらは彼女にとって未知の響きだったが、ウィリアムにとっては呪詛のように重くのしかかっているようだった。
スカーレットの胸中で、警戒心と好奇心がせめぎ合う。彼の錯乱は恐ろしい。けれど、ただ事ではない予感が彼女をその場に釘付けにしていた。この青年は、自分の「存在の不在」を埋める鍵なのだ。怖がっている場合ではない。彼を助けなければ。
「毒杯のクローディアス……王妃ガートルード……策士ポローニアス……」
ウィリアムは虚空を睨みつけ、取り憑かれたように早口でまくしたてていた。激しい頭痛に苛まれているのか、端正な顔が苦悶に歪んでいる。彼は悲鳴のような声を上げ、膝をついたまま身をよじった。
「なぜだ! 俺はまだ一行も書いていない。それなのに、彼らの顔が、声が、すべて分かる! 俺は狂ってしまったのか?」
若き詩人の絶叫が、灰色の荒野に吸い込まれていく。
その時、それまで静観を保っていた灰色の影が動いた。案内人、ヴィルギリウスである。
彼は静かに、しかし確かな足取りでウィリアムへと歩み寄った。灰色の外套が冷たい風に揺れる音だけが、唯一の現実的な響きとしてそこにあった。ヴィルギリウスは錯乱する若者のすぐ背後で立ち止まると、その震える肩に、重石のように手を置いた。
ウィリアムの動きが止まる。
ヴィルギリウスは肩に置いた手にわずかに力を込め、詩人の耳元で囁いた。それは囁きでありながら、冥界の岩肌を穿つような明晰さを持っていた。
「騒ぐな、ウィリアム。これは狂気ではない」
厳かな声が、風の音を遮断する。
「物語は、おまえの中に内在しているのだ。おまえの脳裏に浮かぶその者たちは、空想ではない。この冥界のあちこちに散らばり、おまえに見つけられるのを待っている『迷える魂』なのだ」
その言葉は、呪文のようにウィリアムを縛り付けていた鎖を解いたようだった。
金縛りにあったかのように硬直していたウィリアムから、錯乱の色が波が引くように消えていく。彼がゆっくりと顔を上げ、ヴィルギリウスを凝視したとき、その瞳に宿っていたのは狂気ではなかった。
深く、暗く、そして静かな光。それは、逃れられない運命を受け入れた者だけが宿す、悲壮な覚悟の色だった。
ウィリアムはゆっくりと息を吸い込んだ。肺の奥まで冷たい空気が満たされる。彼の目はまだ虚ろではあったが、その奥底には、以前にはなかった微かな灯火が揺らめき始めていた。
「魂が、彷徨っている……?」
震える声が、乾いた唇から零れ落ちる。
「俺の妄想ではなく、彼らがそこにいると言うのか……? 俺が書くことは、彼らを見つけることだと言うのか……?」
スカーレットは黙ってその様子を見つめていた。ウィリアムの言葉の意味を完全に理解したわけではない。だが、彼の「狂気」が「予言」へと、そして「創作」が「救済」へと意味を変えた瞬間を、肌で感じ取っていた。この灰色の世界で、物語が始まろうとしているのだ。




