Scene 10
ゆっくりと、スカーレットは重い瞼を持ち上げた。
直前まで微睡んでいた幻影の温もりは、瞬く間に剥がれ落ちていく。肺を満たすのは、辺獄特有の、あの乾いた灰色の空気だった。
眼前に広がるのは、見飽きたはずの荒涼とした水辺である。レーテ川の暗い水面が、鉛のような空を映して静かに流れている。
スカーレットは小さく息を吸い込むと、自身の身体が小刻みに震えていることに気づいた。寒さのせいではない。先ほどまで精神の深淵で見ていた、あの暗い室内の光景――若い男女の幻影が、あまりにも鮮烈だったからだ。
蒼白な指先を、自らの胸元へと当てる。鼓動は早鐘を打っている。
(今のは……私の、両親……?)
思考が泡沫のように浮かんでは消える。あの男女は誰だったのか。なぜあんなにも、胸が締め付けられるほどに懐かしく、そして切ないのか。もし彼らが私を生むはずだった父母だというのなら、この場所にいる「私」は、一体何のために存在しているのだろう。
その時だった。
不意に、鋭い痛みがこめかみを貫いた。
「っ……」
頭痛に耐えるように頭を押さえる。自分の意志とは無関係に、唇が勝手に動き、知るはずのない音を紡ぎ出した。まるで、誰かの記憶が強引に唇を借りて溢れ出したかのように。
「あの方は……ハムレット。そして……オフィーリア……」
自分の声が、他人のもののように響く。
教わった覚えなどない。それなのに、その名前を口にした瞬間、魂の底に刻み込まれていた傷跡が開いたかのような、強烈な哀惜が胸に広がった。
「なぜ君が、その名を知っているんだ……!」
その叫び声に、スカーレットは弾かれたように顔を上げた。
隣にいたウィリアムが、苦悶の表情で頭を両手で抱え込んでいる。彼の碧い瞳は焦点が合わず、荒い呼吸と共にスカーレットを――いいや、スカーレットを通してその背後にある何かを、食い入るように睨みつけていた。
「僕でさえ……まだ、書いていないのに……!」
詩人の形相は、創造の苦しみと狂気が入り混じった凄まじいものだった。
スカーレットは思わず一歩後ずさった。彼の放つ剣幕に、肌が粟立つのを感じる。
「わ、私は……っ、その名前を……っ、知りません……!」
震える両手を握りしめ、必死に言葉を絞り出す。恐怖で声が裏返る。
「でも……っ、頭の中に……勝手に……! 名前とか……悲しみとか……っ、流れ込んできて……!」
自分の中にある「空洞」に、得体の知れない感情が濁流のように押し寄せてくる。自分が自分でなくなってしまうような、根源的な恐怖。
けれど、目の前で苦しむ少年の姿が、スカーレットの足を縫い留めた。ウィリアムもまた、何か巨大な奔流に飲み込まれようとしている。
スカーレットは震える手を伸ばした。一瞬の躊躇いの後、意を決して彼の震える肩にそっと触れる。
「ウィリアム……落ち着いてください……! 私も……私も、何が起こっているのかわからないんです……!」
だが、ウィリアムの震えは止まらない。
スカーレットの手の温もりなど感じていないかのように、彼は虚空を見つめ、うわ言のように言葉を漏らし始めた。
「デンマークの……王子……。父の亡霊……。尼寺へ行け……」
それは会話ではなかった。彼の脳内に直接叩きつけられている情報の断片が、受け止めきれずに口から溢れているようだった。
「……ああ、頭が割れそうだ。物語が、設定が、勝手に組み上がっていく……!」
スカーレットは愕然として目を見開いた。
ウィリアムの瞳の奥に、暗い炎のような揺らめきが見える。それは、ただの少年の瞳ではない。この世界そのものを記述し、支配しようとする『創造主』の、業にも似た輝きだった。
(ウィリアム、あなたに見えているものは……?)
彼の口にする言葉は、さきほど見た幻影の男女の運命そのもののように聞こえる。
脳裏をよぎる戦慄が、確信へと変わっていく。
もし、あの幻影の男女が、物語における『ハムレット』と『オフィーリア』なのだとしたら。
その間に宿り、しかし物語の悲劇によって存在を許されなかった命。
「……っ」
スカーレットは息を呑んだ。
レーテ川の冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
「生まれなかった子供」としての自身の孤独と、まだ書かれざる物語を幻視する「作家」の苦悩が、灰色の空の下で静かに交錯していた。




