Scene 9
意識は唐突に、重力すら存在しない奈落へとさらわれた。
平衡感覚が砕け散り、天地の区別もつかない漆黒の奔流に呑み込まれる。激しいめまいと共に、冷たい水底から湧き上がる泡のように、何者かの記憶が脳髄へと直接流れ込んできた。
これは私の記憶ではない。けれど、私の魂を形成する泥濘そのもののように、あまりにも生々しく、懐かしい。
視界を奪われた闇の中、ふいにぼんやりとした光が灯る。
それは深海に沈んだランタンのように頼りなく、しかし冷え切った空間で唯一、温もりを宿す場所だった。
目を逸らしてはいけない。本能がそう告げていた。この光景こそが、私が何者であるかを示す標なのだと。
光の中、二つの影が浮かび上がった。
若い女と、若い男の影だ。
女の影は、慈しむように自らの下腹部に両手を添えていた。まだ膨らみすら定かではないその場所に、世界の全てが詰まっているかのように。彼女は男の影に身を寄せ、祈りにも似た震える声でささやいた。
「もし女の子なら……きっと、あなたの優しい瞳を受け継ぐでしょうね……?」
その問いかけは、あまりにも純粋で、それゆえに痛ましいほどの愛に満ちていた。
男の影は、女の腹部に添えられた華奢な手の上に、自らの手をそっと重ねた。そして、彼女の震える肩を抱き寄せる。彼の纏う空気には、王族のような気品と、逃れられぬ苦悩の重圧が同居していた。
「もし、生まれてくるのが娘なら……」
男の声は、深い井戸の底から響くように、厳かに闇を震わせた。
「『スカーレット』と名付けよう。我らの過酷な運命のごとき鮮血の色、けれど……燃えるような希望の色だ」
スカーレット。
その響きが放たれた瞬間、心臓を直接鷲掴みにされたような衝撃が私を貫いた。
視界が揺らぐ。息が止まる。
ただの音の連なりではない。それは、世界という書物に私という存在を刻み込むための、最初の楔だった。
男の影は、腕の中の女をさらに強く抱きしめた。まるで、迫りくる悲劇から彼女と、その胎動すらしていない小さな命を守り抜こうとするかのように。
「スカーレット……」
深く、慈しむように、彼はその名を呼んだ。
そこには絶望と表裏一体の、焦がれるような祈りがあった。
ああ、そうだったのか。
魂の奥底で、何かが激しく共鳴する。
私は、レーテの川をただ流れてきただけの空虚な漂流者ではない。
鮮血のような運命と、燃えるような希望。その二つをないまぜにして紡がれた、愛と苦悩の結晶。それが私。
この二人の物語の続きとして、決して語られることのなかった「在り得たかもしれない未来」そのものなのだ。
確信が、熱い涙のように胸を満たしていく。
やがて、闇に灯っていた儚い光は、ろうそくが燃え尽きるように揺らぎ始めた。
二つの影の輪郭が崩れていく。記憶の時間が終わろうとしていた。
もっと見ていたい。もっと彼らの声を聞いていたい。けれど、辺獄の法則は無慈悲に私を現世へと引き戻そうとする。
遠ざかる意識の中で、私は消えゆく影たちに向けて、声にならない言葉を捧げた。
(……さようなら、お父様、お母様)
二度と交わることのない時間軸の彼方へ。
(私は、ただの漂流者ではありませんでした。あなたたちの、スカーレットだったのですね)
精神世界の終末を見届けた私の意識は、言いようのない悲しみと、しかし確かな自らの輪郭を抱きしめたまま、肉体という牢獄へと舞い戻っていった。




