第5章︰遭遇
【塔内部・第零会議室】
白い照明が、無機質なガラス壁に反射していた。
円卓の中央には、封印された赤いファイルが一つ。
蒼は立っていた。
背後の自動扉が閉じる音が、やけに遠く感じられる。
正面には、浅井――計画統括責任者。
その両脇には防衛局の上層と企業連合の代表者たち。
「……匿名告発、君の仕業か?」
浅井の声は平坦だった。
だがその目の奥には、冷えた計算が見える。
蒼は答えなかった。
代わりに机の上のファイルを見つめた。
そこには自分が設計に関わった“あの存在”の実験記録が収められている。
——罪の重さが、紙の厚みにまで沁みていた。
「私たちは、国家を守っているんだ。理解しているだろう?」
「……守っているのは、何ですか。人間ですか、それとも数字ですか。」
浅井の眉が、ほんのわずかに動いた。
会議室の空気が凍る。
「君の理想論で国は回らない。現実は結果だけを評価する。」
「なら、結果を見てください。地上の街で何が起きているのか。」
沈黙。
壁一面のスクリーンに、報道映像が映し出される。煙に包まれたU市。
逃げ惑う人々。歪んだ空の下で、かすかに映る巨大な影。
「……これが“結果”です。」
蒼の声は震えていた。
だが、その震えが会議室の全員に伝わるまで、誰も動かなかった。
浅井は短く息をつき、口角を上げる。
「ならば君は、すべてを暴くつもりか。」
「ええ。もう止められません。」
その瞬間、照明が一斉に落ちた。
緊急灯の赤だけが、蒼の瞳を照らした。
誰かが言った――「外部侵入だ」
塔内部の奥で、警報が鳴り響く。
地上で起きた混乱が、ついに地下にも到達したのだ。
蒼はゆっくりと顔を上げた。
「浅井さん、これは……人間の終わりの始まりですよ。」
【地上・避難所】
夜の非常灯が、薄く揺れていた。
壁一枚隔てた外では、何かが這うような音がする。
誰もその正体を口に出そうとしなかった。
「このままじゃ、何も分からないまま殺されるだけだ」
声を上げたのは、かつて某テーマパークで整備士をしていた男・大石だった。
「見てきます。塔アトラクションの方を。…誰か、一緒に」
沈黙のあと、三人が立ち上がった。
ユリ、医師の松田、そして高校生の玲。
彼らは互いの顔を見つめ、誰も言葉を交わせなかった。
ただ、何かをしなければ、すべてが呑まれると本能で感じていた。
「待て、私も行かせてもらう。君達だけでは危険すぎるからな」
そう声を上げたのは町内の自治会長、岸本だった。
ユリ、医師の松田、整備士の大石、高校生の玲、そして岸本を隊長にして探索隊が組まれるのであった。
ーー
外に出ると、夜気が重く沈んでいた。
ライトをつけても、光が霧に吸われていく。
「音、消して。…聞こえる?」
玲の声が震える。遠くで、鉄を引きずるような音。
塔の影が、夜空に黒い稜線を描いていた。
かつてアトラクションが輝いていた場所に、今は軍の車両と焦げた残骸だけが並ぶ。
その中心に、巨大なクレーターが口を開けていた。
ユリは息を呑んだ。
その瞬間、地面がわずかに揺れた。
霧の向こうで、何かが蠢いた気配。
松田が口を開こうとした時、
無線機から誰かの声が入った。
『……聞こえるか。ここは、地下の——蒼だ。』
三人は凍りついた。
塔の下から届いた声。
それは、彼らがまだ知らない“真実”への扉を開く最初の合図だった。
【探索隊】
夜明け前の霧が、某テーマパークを白く包んでいた。
風が吹くたびに、建物の鉄骨が軋む。
「……ここが、あのアトラクション“T.O.T”か。」
隊長の岸本がヘルメットライトを点けると、地面に不自然な裂け目がいくつも走っていた。
まるで何か巨大なものが下から押し上げたように、アスファルトが波打っている。
ユリは震える指でスマートフォンを構えた。
圏外。
通信機もノイズだけを返してくる。
「おかしい……磁気異常?」
「それだけじゃない。音を聞け。」
誰かが囁いた瞬間、地の底から低い脈動のような音が響いた。
ドン……ドン……。
間隔は一定、まるで心臓の鼓動。
「……生きてる?」
ユリが呟く。
岸本は答えず、足元の亀裂に手を当てた。
微かに震えていた。
「生きてるのは“塔”のほうかもしれないな。」
隊員の一人が録音装置を起動しようとした瞬間、ノイズが爆発的に膨らみ、全員のインカムが悲鳴のような音を立てた。
その中に、確かに聞こえた。
“帰れ”という声。
ユリの心臓が跳ねた。
人の声ではなかった。だが、確かに意志を持っていた。
彼女は思わず叫ぶ。
「……蒼さん、これがあなたの残したものなの?」
霧の向こうで、塔が微かに光った。
鉄骨の隙間から、深く青い光が漏れていた。
【地下・蒼】
その同じ瞬間、蒼は警報音に気付く。
端末に無数の警告が踊る。
「地上センサー反応……誰かが来ている?」
浅井の声が通信に入る。
「蒼、まさか君が外に情報を流したんじゃないだろうな。」
蒼は答えない。
ただ、塔の中でゆっくりと目を閉じた。
地上と地下。
二つの鼓動が、今、重なろうとしていた。
【制御室・蒼】
警報が鳴りやまない。
赤いランプが、脈打つように壁を染めていた。
モニターには、各区画のステータスが警告色に変わっていく。
「……間に合ってくれ」
蒼は冷却ラインの制御を手動に切り替え、最下層ゲートの封鎖プロトコルを起動する。
同僚たちは騒然としていた。
誰もが指示を待ちながらも、誰も責任を負いたがらなかった。
蒼の指先が震える。
自分が今閉じ込めようとしているのは、兵器ではなく――あの研究の“結末”そのものだった。
端末が低く唸りを上げ、重いロック音が遠くの壁から響く。
「地下封鎖、開始……!」
制御AIが無機質に告げた瞬間、モニターの一角に微かな影が映る。
黒く大きく、波のように揺れる塊。
蒼は息を呑んだ。
「……もう、動いているのか。」
【地下通路・ユリたち】
空気が重い。
何かが動いている。
ユリたちはライトを頼りに進む。
天井から落ちる水滴の音が、心臓の鼓動と重なる。
「……今、聞こえた?」
背後の青年が囁いた。
次の瞬間、闇が膨らむ。
光を吸い込み、空気が歪む。
巨大な影が、壁際の鉄骨を擦りながら姿を現した――形の輪郭は掴めない。ただ、質量と呼吸だけがそこにある。
ユリの喉が詰まる。
逃げるべきか、息を潜めるべきか。
判断が追いつかない。
奥のスピーカーから、微かな電子音がした。
《封鎖が完了しました。安全区画への退避を確認してください》
安全――その言葉が、逆に寒気を呼んだ。
この地下に「安全」など、もうどこにもなかった。
蒼が上で何をしたのかを知らぬまま、ユリたちは闇と対峙した。
その呼吸音が、壁を震わせた。
次の瞬間、ライトがひとつ、ふっと消えた。
【制御室・蒼】
警報が止まった。
赤く瞬いていた非常灯が一つ、また一つと消えていく。
封鎖完了のサインが点滅し、ターミナルに〈安全圏確保〉の文字が浮かぶ。
それでも蒼の胸は、ひどく重かった。
封鎖とは、つまり切り捨てだ。
彼の中で何かが軋み、壊れそうになっている。
「……これで、いいのか?」
答えはない。
だが彼は、記録ファイルを一つだけ開いた。
“被験体群の倫理申請書・未承認”。
そこに並んでいた署名の末尾に、自分の名前を見つける。
【地下通路・ユリ】
天井のパイプから、ゆっくりと蒸気が漏れていた。
誰かが息を潜め、もう誰かが祈っていた。
封鎖の音が響いたとき、彼女は理解した。
――外へは戻れない。
だが、その向こうで微かな振動が伝わる。
地の底から何かがうごめくような低い響き。
照明の残滓に、巨大な影がゆらめいた。
「走って!」
ユリの叫びとともに、避難所で共にいた数人が闇へと駆け出した。
視界の端で、黒いものが一瞬、光を吸い込む。
音もなく、しかし確実に“存在する”気配。
【制御室・蒼】
通信機がノイズを拾った。
「……たすけ……」
微かな声が混じる。
ユリのものか、それとも誰か別の――。
蒼は立ち上がる。
封鎖した扉の再開放には、上層の承認が必要だ。
それでも、彼の指はもう一度キーボードへ伸びていた。
画面には、再び赤い文字。
〈封鎖解除要求:実行しますか〉
「……俺は、どこまで罪を増やせばいい?」
蒼の声が地下の静寂に溶けていった。
そして塔全体がわずかに、呻くように揺れた。
モニターの光だけが、部屋を照らしていた。
緊急遮断の赤いラインが点滅を繰り返し、地下の全通路は封鎖されている。
だが静寂は安堵ではなく、胸の奥でひどく重い。
蒼はゆっくりとヘッドセットを外した。
耳の奥にまだ、あの“咆哮のようなノイズ”が残っている気がした。
——あれは生きている…封じ込めただけだ。
背後のドアが開く音。
浅井の冷ややかな声が響く。
「よくやった。被害は最小限だ。あとは報告書の形を整えればいい」
蒼は黙ったまま、キーボードに視線を落とした。
“被害”という言葉に、無数の顔が浮かぶ。
ユリたち、地上の人々——そして自分。
「……あなたは、それを“成功”だと呼ぶんですか」
浅井は一瞬だけ表情を曇らせ、しかしすぐに冷笑した。
「理想を抱くなら、科学者などやめればいい。現実を動かすのは結果だ」
蒼は答えなかった。
だが、その手はもう次のコマンドを入力していた。
通信ログの暗号化を解除し、データの転送準備を進めている。
“誰かに、この真実を託すために。”
──
【地下・ユリ】
酸素マスクのフィルターが、息を吸うたびにひゅうと鳴る。
暗闇の中で、壁に走る配管の間から冷たい空気が流れてくる。
「こっちだ……出口があるはず」
だが次の瞬間、遠くで何かが軋む音がした。
低く、金属を擦るような重音。
照明の切れたトンネルの先に、何かが動いている。
息を呑む仲間たち。誰も声を出せない。
ユリは小さく呟いた。
「……あれは、まだ生きてるの?」
目を凝らすと、闇の奥で赤い光が二つ、ゆらりと瞬いた。
それはまるで、地下全体が呼吸しているようだった。
ユリの喉が震えた。
「走って——!」
その瞬間、世界が再び動き出した。
【報道・翌朝】
夜明けと同時に、各局の速報が画面を埋めた。
「T県U市地下で不明な爆発。防衛省は“訓練中の事故”と説明」
同じフレーズが繰り返され、アナウンサーの声にはどこか硬い緊張が滲んでいた。
だが現場を取材する記者・相馬は、カメラを向けた某テーマパークの空に“灰色のもや”を見た。
「……あれは、本当に煙なのか?」
その背後で、住民たちは沈黙していた。誰もが言葉を選んでいた。
【蒼】
制御室のモニターは黒く沈んでいた。
封鎖成功。
――それは報告上の言葉でしかない。
(救えたのか、それとも……閉じ込めたのか)
指先が震える。
冷却装置の低い唸りだけが残り、蒼は壁にもたれた。
ふと、机上の古い紙束に気づく。
「タワーオブインフィニティ計画・倫理検証報告書」
そこに自分の署名があった。
――止めるべきだった署名。
【ユリ】
暗い通路を、ゆっくりと歩く。
封鎖の瞬間、轟音が響き、照明が落ちた。
仲間の一部は行方がわからない。
だが確かに――「あの影」は動きを止めていた。
壁に触れる。
鉄の冷たさの奥で、かすかに何かが脈打っている。
「ここは…生きてる」
その言葉を口にした瞬間、足元の床が低く鳴った。
【報道局・夜】
ニュースルームの片隅で、相馬が匿名のメールを受け取る。
差出人:A.O.
件名:「塔の下に、人がいる」
――再び、沈黙が破られようとしていた。




