第4章︰対峙
【地上・ユリ】
夜の避難所にざわめきが広がった。
外から低く唸るような振動が伝わってくる。
「また……来るの?」
子どもたちが息を詰め、毛布の中で固まる。
香織は弟を抱きしめ、手を強く握った。
振動は徐々に大きくなり、避難所の窓が微かに震える。
外では塔の影が揺れている。
黒い巨大な輪郭が滑るように移動するのが見えた。
「逃げられる……?」
誰も答えられない。
大人たちの顔には、恐怖と困惑が混じっていた。
【地下・蒼】
蒼は保管区Cの端末に向かい、実験ログを最終確認していた。
警報ランプが点滅し、監視カメラの映像では、試験対象がコンテナから脱出している様子が映し出される。
「……これは、まずい」
彼は小声で呟き、非常停止ボタンに手を伸ばす。
だが、装置の電源を切れば被験体の暴走が制御不能になる可能性がある。
地下の空気が、重く、湿った金属臭を帯びて彼を圧迫する。
蒼は一瞬迷った…倫理か安全か。
目の前にあるのは計画の「成果」ではなく、生き物の恐怖そのものだった。
【地上・避難所】
窓の外で何かが倒れる音。
悲鳴。金属の引き裂かれる音。
ユリは子どもたちを抱え、床に伏せた。
足元に、避難者たちの足音と息遣いが混ざる。
「誰か……助けて……」
遠くで誰かが叫ぶ。
だが夜の闇は深く、光も届かない。
塔の影は徐々に町に近づき、闇の中で揺れていた。
【地下・蒼】
蒼は手を止め、深呼吸した。
被験体は自らの意思で動き始めた。
制御を奪われれば、地下だけでなく地上の人々にも危険が及ぶ。
だが封鎖してしまえば、告発は無意味になる。
彼は覚悟を決め、装置を部分的に解放した。
「……逃げろ」
呟くと同時に、蒼は端末から匿名メッセージを発信した。
追加資料と注意書き――
「制御不能の可能性あり。警戒を」
胸の奥で、恐怖と安堵が入り混じる。
地上の人々にはまだ届かないが、影は既に動き始めていた。
【地上・ユリ】
避難所の外、塔の影が建物の間を滑るように通り過ぎた。
子どもたちは目を見開き、口を開けない。
ユリは弟を抱きしめ、息を殺す。
「大丈夫……安全……」
言葉は自分に言い聞かせるように繰り返すしかなかった。
外では低く唸る影が、確実に町を追い詰めていた。
闇の中、蒼の決断が影を解き放ち、地上と地下の世界は初めて直接的に交わった。
【地上・ユリ】
森の向こう、黒い影が動いた。
初めは、濃霧に紛れた大きな樹の枝かと思った。
だが次の瞬間、その輪郭が異様に大きいことに気づく。
「……熊?」
声にならない叫び。
ユリの目は、その影を追う。
影は森を越え、民家の屋根を軽く踏みつけるようにして移動した。高さは少なくとも十メートル、想像を絶する巨体だ。
その瞬間、低く唸る咆哮が響いた。
振動が地面を揺らし、避難所の窓がガタガタと震える。
子どもたちは悲鳴を上げ、母親たちは本能的に床に伏せる。
毛皮が、光を吸い込むかのように森や建物の影と同化する。
ユリは息を呑んだ——
その目に、赤く光る瞳が浮かび上がった。
本能的にこれは“ただの動物”ではないと直感する。
【地下・蒼】
端末に緊急アラート。
モニターには、被験体の暴走がリアルタイムで映し出される。
「逃げた……」
蒼は静かに呟き、冷や汗が背筋を伝う。
制御用の遠隔注射システムは作動中だが、彼らの暴走速度を止めることはできない。
「ドーパミンとステロイドの効果……最大値に達している」
指令書に書かれた理論通り、被験体は極限まで凶暴化していた。
子どもたちに「肉の味」を覚えさせ、人間を獲物として認識させる教育も、着実に効力を発揮している。
蒼は頭を抱えた。
「……これは兵器だ。人間には到底制御できない…!」
【地上・避難所】
影が民家の間を通り過ぎ、屋根瓦が崩れる。
ユリは弟を抱き、香織と目を合わせた。
その目に映るのは、10メートル級の黄色い獣の存在そのもの。
耳をつんざく咆哮と、地面を揺るがす重低音。
体内の恐怖が、一気に全身を駆け巡る。
「…逃げなきゃ……」
声が震え、言葉が途切れる。
だが、その前に影はさらに近づく。
避難者たちは床に伏せ、息を殺すしかない。
【地下・蒼】
蒼は端末を叩きながら考えた。
「止めなければ……でも、地下の封鎖は……」
手元の制御パネルには、遠隔自動注射器のスイッチが赤く点滅している。
被験体は完全な獣になりつつある。
だが、暴走を止めるには、地下のシステムごと封鎖するしかない。
その決断が、地上の無辜の人々を救う唯一の手段だと、蒼は知っていた。
【地上・ユリ】
影は避難所の方に向かってきていた。
巨大な黄色い体は、木々をなぎ倒し、民家の屋根を踏みつけながら迫る。
子どもたちの泣き声が響き、地鳴りのような咆哮が空気を裂く。
ユリは弟を抱き、必死に逃げ道を探す。
だが目の前の光景は、想像を超えていた。
人間が兵器として作り出した、10メートル級の“黄色の熊”。
それは獰猛で、冷酷で、人間を獲物としか見ていなかった。
闇夜の中、赤い瞳だけが彼女たちを捕らえている。
【地下・制御室前】
蒼は白衣を押さえながら、長い金属廊下を歩いた。
モニターには、地上の避難所周辺での被験体の映像が映る。
赤く光る瞳、踏みつける地面、崩れる屋根。
息が詰まる。
背後から重い足音。
「コードネーム"PUSAN"…」
「蒼、待っていたぞ」
振り返ると、浅井が肩幅を広く、黒いジャケットで威圧的に立っていた。
その背後には、上層部の幹部たちも列をなす。
「君は……何をしている?」
浅井の声には怒りと好奇が混じる。
蒼は冷静を装いながらも、胸の鼓動が早まる。
「告発です。匿名で外部に送った。人々が知る権利を持つ。」
浅井の眉がぴくりと動いた。
「権利? 我々がやっているのは、国家の安全のためだ。君が個人的に判断することではない」
浅井は一歩踏み出す。
「君がやったことは、計画を危うくする行為だ。被験体は兵器として管理されている。制御不能になれば、それこそ君が救うべき人々に害を及ぼす」
蒼は腕を組み、視線を逸らさない。
「それでも……人々は犠牲にされるだけだ。地下の影響はすでに地上に届いている」
上層部の一人が口を開く。
「蒼、お前には才能がある。だが倫理に引きずられては何も残せない。被験体の暴走は想定内だ」
蒼は吐息をつき、机の上の端末を指差した。
「想定内? このデータを見ろ。暴走は、君たちの“想定”を超えている。人間に対する凶暴性が完全に固定化されつつある」
浅井の表情がわずかに硬直する。
「ならば……君はどうするつもりだ?」
蒼は一瞬の沈黙の後、目を細める。
「私は止める。地下を封鎖し、制御できる範囲で被験体を封じる。それ以上は…誰にも任せられない」
浅井は唇を噛み、指を机に叩きつける。
「止める……? 君は、自分で計画を破壊するつもりか?」
幹部たちはざわめき、微妙な距離を取る。
「リスクを理解しているのか?」
蒼は頷く。
「理解している。だが、人が犠牲になるまま放置することは、倫理として間違っている」
浅井は目を細め、笑みを浮かべた。
「なるほど……君の正義か。だが正義は、しばしば敗北するものだ」
蒼は拳を握り、決意を固める。
「ならば、敗北しても構わない。だが、犠牲は最小限にする」
廊下の空気が重くなる。
監視カメラの赤い点滅が、二人の影を長く床に投げかける。
被験体の咆哮が遠くで響き、振動が壁を伝う。
浅井は冷たい目で蒼を見据え、ゆっくりと後退した。
「……ならば、君のやり方を見せてもらおう」
蒼は深く息を吸い、端末の封鎖システムを操作する。
心の中で「誰も犠牲にさせない」と呟きながら、地下の闇に踏み込む。




