第3章︰緊迫
【地上・ユリ】
空が赤く濁っていた。夕焼けではない。焦げたような鉄の匂いが風に混ざっていた。
誰も口を開かない。避難所の中では、子どもが泣く声も掠れている。
「また……塔の方で、何かが起きたんだ」
ユリは言った。言葉が震えていた。
遠く、某テーマパークのシルエット。
T.O.Tと呼ばれる塔アトラクションの建物の影が揺れている。
【地下・蒼】
金属の匂い、薬剤の蒸気。
白衣の袖に沁みついた消毒液の匂いが、もう落ちなくなっていた。
蒼はモニターを見つめた。
「実験体07、覚醒反応安定。ドーパミンレベル、臨界値に接近」
部下の声を聞き流しながら、彼は思う。
——人々は何を望んでいる?
恐怖を武器にする国家か、それとも安寧を夢見る群衆か。
どちらも、結局“力”を求めているように見えた。
【地上・香織】
避難所の壁が揺れた。
「地下が鳴ってる……!」
誰かが叫ぶ。足元から響く、低く獣のような咆哮。
ユリは香織の手を掴み、震える声で言った。
「どうして、こんな場所にあんなものがあるの……?」
【地下・蒼】
モニターに映る映像が揺れた。
鋼鉄の扉の向こうで、何かが叩いている。
「おい、ロックを——」
だが蒼は、ヘッドセットを外した。
指が震える。
彼の頭には、あの日の上層部の言葉が蘇る。
「民は理解しなくていい。結果だけが価値だ」
蒼は息を吐いた。
「……本当に、それが価値なのか?」
地上では、塔の影が少しずつ広がっていく。
地下では、良心の残響が機械音にかき消されていった。
——タワーオブインフィニティ計画。
それは人の「恐怖」と「願望」を等しく試す装置だった。
【地上・ユリ】
朝の光が、まるで硝子越しに差し込むように白かった。
避難所の窓辺に立つと、かつて遊園地だった丘が見える。
観覧車は骨のように錆び、子どもの頃あの場所は「夢の門」だった。
いまは、誰も近づかない廃墟である。
「今日も……、誰か戻ってこなかった」
声を落とす看護師の背中が、小さく震えていた。
遠くで、低い振動のような音がした。
地面の下で何かが蠢いている。
誰も、それが何かを口にしない。
――ユリは知っていた。塔の地下には“何か”がある。
そしてその“何か”を生み出したのは、同じ人間だ。
【地下・蒼】
警告灯が消えた実験室には、冷たい青光が漂っていた。
蒼は白衣を脱ぎ、机の端に置いた。
壁の向こうからは、鉄の鎖が擦れる音。
呼吸音のような、獣の寝息。
彼はモニターを見つめた。
表示されたグラフは乱れ、制御AIが何度も警告を出している。
「暴走ではない……拒絶だ」
そう呟いて、蒼は頭を抱えた。
彼が作ったのは兵器ではなく“恐怖の構造体”だった。
人が抱く「恐れ」を測定し、それを反射する存在。
軍はそれを「最終心理兵器」と呼んだが、蒼にはただの地獄の鏡にしか見えなかった。
「……人は、何を望んでこんなものを作る?」
蒼はモニターに映る自分の顔を見た。
その瞳の奥に、かつての自分――純粋に人の心を理解しようとした科学者の姿は、もういなかった。
【地上・ユリ】
夜。
街に雷が落ちたような閃光が走る。
誰かが叫び、避難所の灯が消えた。
ユリは空を見上げた。
黒い塔の影が、まるで空の裂け目のように見えた。
「……蒼さん、あなたはまだ、そこにいるの?」
彼女の声は、風に溶けていった。
【地下・蒼】
警報が鳴り響く。
封鎖装置が自動解除される音がした。
誰かが、外から――
蒼は迷わず非常停止ボタンに手を伸ばす。
だが指は止まった。
思い出したのは、あの少女の声。
「人は、何を望むんですか?」
――蒼はゆっくりと手を下ろした。
そして、すべての照明が落ちた。
塔の上も下も、同じ闇に包まれた。
光がないのに、世界は息をしていた。
彼の胸に、初めて確かな痛みがあった。
“人が望むものは、恐れか、赦しか――”
蒼はその答えを求めて、闇の中へ歩き出した。
【報道局・夜】
「……匿名ファイルの発信源、T県U市の地下施設。確定です。」
ニュースセンターの照明が、いつもより白く感じた。
若手記者・榊は、モニターに映る添付資料を食い入るように見つめていた。
そこには内部構造図と実験記録、そして“Project Tower of Infinity”の署名。
「映像、出せるか?」
デスクの声が飛ぶ。
「まだ検証中です。でも、これが本物なら……」
誰も口を開けなかった。
その沈黙を破ったのは、速報チャイムだった。
《政府関係機関による極秘生物兵器実験の疑惑》
テロップが流れる。
映像は夜のテーマパーク上空を捉え、報道ドローンが照らす巨大な影を映していた。
【官邸・危機管理室】
「……どこから漏れた?」
重い沈黙。
スクリーンには全国放送のニュース映像が映し出され、総理補佐官たちは無言で顔を見合わせた。
「匿名発信。海外のサーバを経由。発信元は特定不能です。」
「削除申請は?」
「主要SNSは拒否。国際メディアにも同時流出しています。」
老練な官房長は机を叩いた。
「止めろ。『計画』の存在を認めるな。あくまで虚偽情報として対応しろ。」
その頃、記者・榊の端末には、新たなメッセージが届く。
差出人:unknown_a
本文:「私は、塔の下で生まれたものを見た。」
榊は息をのんだ。
それは、告発者 “蒼” の次の通信だった。
そして、この夜を境に、世界が揺れ始めた。
【報道局・朝】
全国ネットのスタジオは慌ただしかった。
アナウンサーの声が、通常のニュースより少し震えている。
「本日未明、T県U市の地下施設に関する内部告発資料が報道各社に届きました。匿名による提供で、政府機関の極秘実験が示唆されています。」
若手記者・榊はモニターの前で唇をかんだ。
映像には、夜の塔の地下で照射される青白い光と、巨大な機械装置の影が揺れていた。
チャット欄には瞬く間に疑念と恐怖が書き込まれる。
「これは……軍事兵器?」
「地下施設の実態は?」
画面の向こう、視聴者の目は“夢の楽園”の塔アトラクションへ釘付けになっていた。
【官邸・危機管理室】
官房長がスクリーンに映るニュースを食い入るように睨みつける。
「放送は止められない……」
首相補佐官の一人が息を詰める。
「国内外のメディアが同時に報道を始めています。国際社会の目も向いている。」
情報統制の試みは、もはや逆効果だった。
外部への情報漏洩を想定していなかった官邸は、初めて手が震える恐怖を感じる。
【地下・蒼】
蒼は薄暗い廊下を歩きながら、耳にヘッドセットを押し当てた。
内部ネットワークから匿名送信した報告の配信状況がリアルタイムで確認できる。
画面には、国内外のニュースサイトが次々と記事を公開していくログ。
「届いた……」
胸の奥で、得体の知れない重みが跳ねる。
成功だ。
だが同時に危険も増大した。
誰かがこの匿名を解読し、彼を追うだろう。
蒼は机に戻り、指先で次の文書を打ち始めた。
「追加資料。被験体の状態、管理記録、倫理懸念——全ての証拠を保全」
画面の文字が白く光るたびに、地下の冷たい空気がさらに重く感じられた。
【地上・ユリ】
避難所では、報道を見た人々の間にざわめきが広がった。
「本当だったのか……」
「アトラクションの下で……子どもたちが?」
香織は息子を抱き寄せ、震える手を握った。
言葉にならない恐怖が、体育館を覆う。
子どもたちの目は、何も理解していないのに、母親の恐怖を敏感に察している。
「安全だって……本当に?」
避難者の一人が小声で呟く。
答えは誰も出せない。
塔の影は、まだ町の外で揺れていた。
【官邸・緊急会議】
首相は報道を横目に、閣僚に指示を出す。
「情報の遮断は不可能。まずは被害者の安全を優先。次に、国民向け説明を整理せよ」
官房長が冷たい声で返す。
「しかし、施設は極秘です。説明できる範囲が限られます」
「言い訳は許されない……。国際的非難が始まる前に、対応策を示せ」
首相室の時計が、重く時間を刻む。
外では報道が止まらず、SNSは次々と内部告発の詳細を拡散していた。
【地下・蒼】
蒼は最後に端末を閉じ、背筋を伸ばした。
地下の静寂に、かすかな安堵が混じる。
彼は知っていた——この告発は、塔の下で生まれた“恐怖”を地上に曝す最初の一歩だということを。
しかし、胸の奥ではまだ恐怖がくすぶる。
人々は、塔の影の恐怖を理解するだろうか。
そして、彼の行動が誰を救い、誰を傷つけるのか——答えは、まだ届いていなかった。




