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PUSAN  作者: 左衛門乃助
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第2章︰葛藤

地上 — 香織


避難所の体育館は、外界との薄い布一枚を隔てるだけの世界だった。

壁の蛍光灯は古く、節電のために間引かれている。

毛布の山に紛れて子どもたちの寝息が断続的に漏れる。

香織は自分のトランクを膝の上に置き、そこにある何かを握りしめる…父の古い鍵。

意味を思い出せないけれど、そこにあることで自分がまだ自分であるように感じられた。

外からは時折、低い咆哮が聞こえる。

誰かが窓のカーテンをめくり、周囲の様子を確かめるたびに室内の空気が引き締まる。

子どもたちの瞳は以前とは違っている。

夢の中で森の巨影に追われるように、寝顔がしばしば引きつる。

香織は息子の手を握りしめ、指先が震えるのを感じた。

彼女は毎日、自分に言い聞かせている——

「ここにいる、ここで守る」と。

だが心の片隅で、答えにならない怒りが燃え続けている。

誰が、それを始めたのか。

誰が、塔の下で日常を攫ったのか。

避難所の誰もが同じ問いを抱えているが、口にする者は少ない。

真実が出る前に人々は互いにそれを噛み殺すように、目を逸らす。


塔の下 — 蒼


蒼は夜中の通路を歩きながら、報告草稿の最後の段落を思い浮かべていた。

自分の言葉が、冷たい計算式や上層の逆風で粉砕されるかもしれないと知りつつも、その行為自体に意味を見出したかった。

だが、彼にはまだ恐れがあった。

上司の浅井が持つ政治的な力、契約者たちの静かな露骨さ、そして「成果を出さなければ消える」文化。

抵抗は、目に見えない摩耗を自分に与える。

ある夜、監視カメラのログに不審なアクセス履歴が残っているのを見つけた。

時刻は深夜、IDは内部の誰かのものだった。

蒼はログを辿り、アクセス元が保管区のセクションCであることを突き止める。

そこには被験体の残骸や採取サンプルが保管されている。

胸が高鳴り、彼はつい足を早めた。

真実に触れるたびに、胸の中の火は大きくなる。


地上 — ユリ


ユリの家族は、昨日までの暮らしの断片を一つずつ運んでいた。

弟は怯えきっていて、夜に目を覚ますと壁のしみを指差して「またいる」と囁いた。

ユリは弟を抱きしめ、声を震わせながらも励ました。

だが彼女の内側で育つ不穏は、避難所の中で頻繁に顔を出した。

夜になると、敢えて外に出て森の方向を眺める者がいた。

顔を隠して視線を合わせないようにしつつ、情報を求める小さな集団ができあがっていった。


塔の下 — 蒼(接触)


蒼は倫理顧問の元へ行き、静かな声で言った。


「ログに不審なアクセスがあります。保管区の確認をお願いしたい」


顧問はしばらく黙ってから、低く頷いた。


「私も気付いている。だが動けば折り合いがつかない。どう動くかは君次第だ」


二人の目は地下の薄暗がりで交差し、そこにあるのは恐れよりも深い理解だった。

顧問は言葉少なに続けた。


「我々は学者として何を守るべきかを、忘れてはならない」


その言葉は蒼にとって、救命具のように感じられた。


地上 — 避難所の会議


町の代表が集められ、簡易の司会が立った。

誰が責任を取るのか、誰が情報を出すのか。

香織は人混みの中で呟かれた名前を聞いた。


「塔アトラクションの地下……」


その単語が口に上ると室内はざわついた。

誰かが「軍の実験」と断定し、別の者は「政府の勧告だ」と言った。

それぞれの声は少しずつ事実に肉付けされていく。

だがその夜、誰も確信を持って語れなかった。


塔の下 — 蒼(潜入)


ある深夜、蒼は保安上の手続きを巧妙に抜け、保管区Cへ向かった。

通路の空気は冷たく、金属の匂いと消毒薬の匂いが混じる。

扉を開けると、薄暗がりの中に整列するコンテナ群が目に入った。

ラベルは番号だけで、匿名性が徹底されている。

蒼は一つの箱の蓋をこっそり開けた。

そこに見えたのは、布切れ、ゴム、そしてかすかな血の跡。

心が締め付けられた。

彼は資料で見た「民生系サンプル」というタグを思い出す。

言葉は妙に冷たく、そこにある現実は熱かった。


地上 — 夜襲の噂


午前中の静けさが崩れる。

誰かが森の方で見たという「影の移動」を報告し、町は再び騒然となる。

避難所から数名が物資を取りに戻ったが、二時間後、そのうちの一人が血を流して戻ってきた。

口から出る言葉は断片的で「巨大な……音が地面を割った。嗅いだ匂いが…あれは…」としか言えない。

パニックが広がる。

香織は息子を抱えて床に伏せる。

周囲の大人たちは何を守るべきかを再び必死で探す。


塔の下 — 決断の書簡


蒼は机に戻り、報告草稿に手を加えた。

今回は単なる内部文書ではない。

彼は匿名で外部のジャーナリストに送る術を探す。

だがその手段はリスクが高い。

もし発覚すれば、彼だけでなく倫理顧問や協力した者たちも危険に晒される。

彼は紙切れに小さく書いた——

「真実を外へ。人々は知る権利を持つ」

その時、彼の胸に新たな恐れが湧いた。

それは見られることよりも、見た後に何が起こるかという恐れだった。

真実が暴かれれば、町は更なる危機に曝されるかもしれない。

だが蒼は一つの確信を得ていた——

何もしないことは既に選択であり、誰かが代償を払っているという事実を受け入れることに他ならない。


地上 — 子どもの質問


避難所の夜。

息子が目を覚まし、母の顔を見上げる。


「ママ、あの熊は悪いの?」


香織は一瞬言葉を失い、それからゆっくりと首を振る。


「わからない。でも、今は安全にいようね」


その答えは半分の安心と半分の嘘だった。

香織は自分がどれほどの真実を与えるべきかを測った。

子供にとっての世界は単純であり続けるべきだと願う一方で、彼女の胸の中の怒りは、いつか説明を求める日が来ると知っていた。


塔の下 — 小さな連携


蒼は夜更けに倫理顧問へもう一度連絡を取る。

顧問は静かに言った。


「私が一つ動く。君はもう一つ。だが覚えておいて、我々は敵に投げつける爆薬ではない。証拠を渡し、まずは報じられるべきことを確保しよう」


二人は慎重に行動計画を話し合った。

彼らの小さな連携は、地下の巨大な装置には微かながらも作用を及ぼすかもしれない。

だが蒼は知っている——

灯りは小さいままでは消えてしまう。

どれだけの声が必要なのか、その見積もりを彼はまだ持っていなかった。



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