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PUSAN  作者: 左衛門乃助
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第1章︰暴挙

T県U市。

風船と笑い声の残る地上の喧騒から、四十メートルほど下ったところに全く別の世界があった。

客は笑い、写真を撮り、夕暮れの光の中で映える回転木馬やパレードに群がる。

だがその敷地、丁度塔のアトラクションに位置するその下層は、人工の夜であった。

蛍光灯が冷たく反射する通路、鋼鉄の壁、静かに回る換気扇。

そこに貼られた立て札にはただ一行――

「TOWER OF INFINITY PROJECT(機密)」とだけ書かれていた。


みなみ そらは白衣のポケットに押し込んだメモ帳の角を噛みしめながら通路を歩いた。

研究者としての肩書は立派だ。

理工系博士、軍事応用バイオメカニクス担当、大手委託研究機関の主任。

だが今日の彼の胸には、いつもより重い石が載っているように冷たく沈んでいた。


「蒼、ミーティングに遅れるぞ」


声は低く、廊下の先で待つプロジェクトマネジャーの浅井が手招きした。

浅井の笑顔はいつもプロジェクトの成功確率を数字に置き換えるのが上手かった。

数字は説得力がある。

資金が来る、安全保障の約束が来る。

だが数字は、夜に泣く者の数や、手を震わせる母親の顔までは換算しない。

会議室のドアを開けると、壁のスクリーンに実験のログが並んでいた。映像は黒と白と赤の断片だ。

被験体――群の呼称で済まされる行為――の挙動、センサーデータ、所長の簡潔な報告。

そこには成功と失敗のラベルが付けられていた。

成功は即ち軍事的有用性を意味する。

失敗は改良のための知見、と結論づけられる。


蒼はスクリーンの片隅に映る小さな手の写真に目が止まった。

手は泥だらけで爪は欠け、だが指先の皺は子どものそれだった。

写真はデータベースのタグで「民生系サンプル」とラベルされていた。

ラベルの隣には、実験的介入の簡潔な説明がある――

ただしその説明は操作的で、痛みや恐怖については一切触れていない。

会議の意見はいつも順序立てられていた。

軍需担当は効果的な応答時間、展開可能な影響半径、被害抑止のための運用指針を述べる。倫理顧問は資料を読み上げ、法的な枠組みについて慎重に言葉を選ぶ。

蒼は自分の順番が来るのを待ちながら、隣の椅子に置かれたコップの水を眺めた。

水面に映る自分の顔は、会議室の灯りで切れて歪んで見える。


「蒼君、データは?」


浅井が促す。

彼はいつも通りの仕事をして、いつも通りの報告をした。

数式とグラフが並び、可視化された成果は美しく見えた。

だが蒼の言葉は機械的で、最後にはいつもと同じ断定で締めくくられた──


「これらは運用に耐え得る性能を示しています」


会議が後ろへ流れていくと、蒼の胸の中で別の声が鳴り始めた。

あの子どもの手の写真が、廊下の蛍光灯の下で突然現実味を帯びる――

小さな指先、無邪気な笑顔、、いつかの休日に海岸で見た遠い親戚の子の姿が、幻のように重なった。

何を守るために、何を犠牲にしているのか。

彼は自分に何度も問いかけたが、答えは研究ノートの裏にかすれていった。


夜勤の通路で、蒼は偶然一枚の掲示ポスターを見つけた。

テーマパークの宣伝だ――


「夢と魔法の楽園」


写真の中には子どもが大きく笑っている。

笑顔の周縁は、彼が昨夜見た画像と同じ世界のものだった。

地上の嘘はあまりにも素直に作られている。

地下の現実はいつもそれを食べて増殖する。

ある晩、蒼は実験区画の一角で作業をしていると、一人の若い技術員が震える声で話しかけてきた。

目は充血し、手は消毒液の匂いで満ちていた。


「先日、見張りのやつが…あの子を助けようとして捕まった」


技術員は声を落とす。

蒼はその言葉に凍りついた。

公式記録にない「助けようとした者」がいるということは、記録の外で何かが起きている証拠だ。


翌朝、蒼は自分の机の引き出しを開け、父が遺した古い短波ラジオを取り出した。

父は元消防士で、戦後を懸命に生きた人だった。

ラジオのつまみを回すと、遠い地方局の静かな声が耳に入る。被災地の仮設住宅の話、届かない年金の話、誰かの葬儀の話。

人々が何を望むかは、その声の端々に現れていた。

安全、食べ物、明日。

価値は一日の暮らしの中で測られている。

蒼はその夜、研究室の小さな端末に向かい、プロジェクトに関する内部資料を読み直した。

公式文書では国家の安全が強調され、潜在的脅威から国民を守ることが至上命題とされていた。

だが内部の匿名メモには違う言葉があった。


「出力増強がもたらす社会的外部性についての評価が不十分。民間被害の想定が欠如」


蒼は指でその行をなぞり、心の中で冷い火花が散るのを感じた。

彼が研究に参加した理由は複雑だった。

若い頃は飢えと不安に耐え、理想と呼べるものを抱えて学び、科学の力で人を助けるつもりだった。

祖母の笑顔、地方の小さな診療所で待つ患者の顔。

だがここ数年、理想は予算と成果報告、そして「成果=有用性」という単純な等式に分解されていった。

蒼は自分の手が作り出したグラフの端で、誰かの簡潔な評価を見つける──

「効果的だが倫理リスクあり」

評価の文末に小さく添えられた括弧書きは、すべてを決めていた「(政治的承認次第)」


一夜、蒼は地下の保管区で、試験対象となった個体の残骸に似た被覆材のサンプルを目にした。

見覚えのある質感、匂い。

生物と機械の境界を曖昧にする工学の跡。

だがその側面には、どこか懐かしい布切れが絡まっていた。色あせた子ども用の下着の一片──

誰かが落とした日常の残滓だった。

蒼はしゃがみ込み、そっとそれを手に取る。指先に触れると、胸の奥が熱くなった。


「何を守るつもりだ?」と彼は自分に問いかけた。

国家の安全か、会社の利益か、それとも――自分が本当に守りたかったもの。

父の手のぬくもり、祖母の台所で聞いた笑い声、近所の公園で見た無邪気な走り回る子どもたちの影。

彼がかつて大切にした小さな価値の数々は、今やプロジェクトのマーケット分析には書き込めない「非貨幣的なもの」になっていた。


決断は夜に訪れた。

蒼は最初にして最後の禁忌的な行為の入口に立っていたわけではない。

だが小さな抵抗の始まりは、いつも些細な場所から生まれる。

彼は自分の机に戻り、端末に新しいファイルを作った。

タイトルは無造作に「報告草稿_倫理懸念」とだけつけられた。

そこに彼は冷静な言葉で、これまでのデータが示す短期的利益と取りうる長期的被害の可能性を並べた。

数式だけでなく、物語を一章書くように、被害の想定図を付け加えた。

そこには、失われた子どもの笑いの描写も、避難所で枯れた目をした女性の姿も記した。


送信ボタンを押すためには、いくつもの権限と承認が必要だった。

だが蒼が選んだのは、まず内線で倫理顧問に連絡することだった。

彼は鍵のかかった会議室の片隅で、声を震わせながら一文を読み上げた。


「我々は何のためにこれを作っているのか。人々は何を望み、何に価値を見出すのか」


返ってきたのは短い沈黙と、思いもよらぬ優しい応答だった――

その顧問もまた、同じ疑問を抱いていたのだ。


地下の塔は静かに軋んだ。

だがその下にいる彼らの胸の中では、少しずつ別の音が生まれていた。

抗議の叫びではない。

むしろ、遠い地上へ向けられた小さな灯りのようなものだった。

希望というよりは、まずは疑問を言葉にする勇気。

蒼は自分の指先が震えるのを感じながら、もう一度自分に問うた——

私たちは何を望むのか。

何に価値を見出すのか。答えは、まだ書かれてはいなかった。

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