序章︰惨劇
夜の森は、いつもより静かだった。
風が低く唸り、枯れ葉が音をたてて滑るだけ。
だがその静寂は、近づくべきではないものの前触れでもあった。
遠くの見張り台で、若い監視兵が双眼鏡を置いて顔を攣らせた。
林の縁に、黄色い巨躯が浮かび上がる。
見慣れない影──
足取りは獣だが、動きの鋭さは計算された機械のように正確だった。
夜露がその巨体の輪郭を撫で、月光が牙と毛皮の間で冷たく跳ね返った。
「来ている……」
誰かが囁いた。
声は小さく、地面に吸い込まれていった。
兵士たちは訓練されたように陣形を作り、だが動揺は抑えられない。
彼らの目に映るのは、かつての生き物…。
──熊──の名残りだけだった。
生体を思わせる胸の上下運動、しかしその瞳は何かを喪失しているかのように空虚だ。
巨体はゆっくりと、しかし躊躇なく進む。
倒木を踏み越え、銃座の灯りを嗅ぎ分けるように鼻を振る。
誰も近づけない。
命令系統は冷徹で速い判断を求めるが、現場にいる者の心は簡単には従わない。
監督者の一人が震える手でラジオを握り、口元で言葉を濁した——
「命令は……上で判断を」
兵器であることと、生き物であることの交差点に立つその影は、ただ進むだけだった。
通報は瞬く間に町へ届き、画面の向こう側では政治家が顔を見合わせ、ニュースは想像以上に早く道徳の議論へと流れていく。
被害者の家族、科学者、軍人、抗議者──
それぞれが自分の言葉で非難と正当化を叫ぶ。
だが森では、ただ一つの現実だけが動いていた。
あの巨大な足跡が、誰かの家の方向へ向かっているということ。
夜明けが近づくころ、静寂は破られた。
遠くで人の叫び、金属が砕ける音、そして低い咆哮。だが場面の焦点は、破壊そのものよりも、その後に残る「問い」だった——
私たちは何を失ってまで、安全を得ようとしたのか。誰が、それを許したのか。
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窓の外は、まだ灰色だった。
雨上がりのように湿った風が通り、軒先にぶら下がった洗濯物が微かに揺れる。
朝の光は薄く、だがいつもよりも重たく感じられた。足音が近づく――
それは家族の足でも、通りすがりの子どもの走り声でもない。
低く濁った振動が地面から伝わってきて、陶器のカップが棚で微かに鳴った。
香織はベッドの縁で硬直したまま、しばらく動けなかった。
頬には昨夜の寝汗が貼りつき、まぶたの裏ではまだ遠吠えが震えている。
隣の布団で眠る息子の体温を確かめると、若い胸が頼りなく上下しているのがわかった。眠りは浅く、夢の最後に見た森の巨大な影が現実と入り混じっている。
台所へ向かう足取りは、いつもなら自然で気取らない。
だが今日は違った。
戸棚の陶器を一つ一つ確認し、ガス栓を触る手が震えた。
戸口の外で、近所の誰かの話し声がかすかにする。
だれかが泣いているような、しかし声はすぐに切れた。
香織は息を飲み、そっと縁の下に置いた小さなトランクを撫でる。
中には父の形見の古い写真と、息子がまだ赤ん坊のときに使った白いくつ下が入っている。
くつ下は黄ばんで、ほころびていたが、香織はそれを強く握りしめた。
通りに出ると、町はすでに変わっていた。
瓦礫の匂いと燃え残りの煙、踏みしだかれた草の匂いが混ざり合い、いつもの朝の匂いを押しのけている。
向かいの家の庭先では、隣人の老人が膝を抱えて座り込み、手にしたラジオの針をただ見つめていた。
目は赤く、時折震える唇から言葉が零れる。
「こんなことが…」
それだけで、言葉は力を失った。
香織の胸の奥には、言葉にならない怒りと恐怖が混ざり合っていた。
昨夜、森の方角から伝わった咆哮は、ただの動物の叫びではなかった。
家屋の壁を引き裂くような衝撃波、窓ガラスを震わせる力、そして暗闇で見たあの瞳の光――それらは人の理性を拒む。
彼女はふと息子の顔を見下ろす。
まだ幼い頬に、夢の余韻を残して眠っている。
もし…もしあの影がここへ来ていたら、どうなっていたか。
頭の中で無数の「もし」が繰り返され、身体が冷たくなる。
近所の若い母親、里美が慌てて走り寄ってきた。腕には小さな荷物を抱え、下の子の手を引いている。
顔は土で汚れ、髪は乱れていた。声を出そうとして、しかし言葉は震える。
「香織さん、昨夜…外の家が…」
彼女はそこで言葉を詰まらせ、代わりに手で胸を押さえた。
二人は無言のまま互いの目を見交わす。言葉は必要なかった。
被害の深さは、目の前にある破片と、遠くで鳴る救急サイレンの反復で測れる。
町役場の職員が声をかけ、住民の避難所と応急対応の指示を伝え始めた。
だがその声は軍の発表やニュース速報と重なり、情報の輪郭は曖昧だ。
誰も確信を持って説明できない。
政府の発表は数行の声明だけで済まされ、テレビのアナウンサーは言葉を選びながら「原因は現在調査中」と繰り返す。
香織はその言葉を聞きながら、自分の心がますます不安定になるのを感じた。
原因が「調査中」であるということは、同時に答えのない恐怖を延長することを意味する。
昼が近づくころ、避難所へ向かう人々の列ができた。毛布、食料、身の回り品――それらは急ごしらえの宝物のように見える。
香織は小さなトランクを肩にかけ、息子の手をしっかり握った。
周囲から聞こえるのは断片的な会話、互いの確認、時折漏れる泣き声。
誰かが遠くで「子どもを外に出すな」と叫び、別の誰かは「これは軍の実験だ」と囁いた。真実かどうかは関係がない。
怖れは事実を前提にして生まれる。
避難所の体育館で、彼女は古い床に座り込み、周囲の顔を見回した。
見覚えのある顔もあれば、初めて隣に座る人もいる。
子どもたちは無邪気に見えるが、彼らの瞳はどこか遠くを見ている。
香織は息子の頭を撫で、唇で小さく歌を口ずさんだ。
それは母親が自然と選ぶ癒しの旋律だった。
だが歌声は薄く、周囲の不安を消すには足りない。
外では、森の影がまだうごめいているという噂が断続的に広がった。
だれも確かめることはできない。
だが誰かが確かめるべきだという思いと同時に「知らないでいられるなら知らないでいたい」という思いが、町の人びとの間でせめぎ合っている。
香織はその矛盾の中で、ただ一つの事実に立ち戻る。
息子が今ここにいるということ。
彼を守ること。
ほかの答えは、まだ遠い。
夜が来るとき、彼女は再び森の方角を見た。
夕闇は降り街灯が一つ、また一つと灯る。
か細い明かりたちが、薄闇の上にぬくもりを落とす。
だがその光の輪郭に、彼女の心は寄り添わなかった。
被害者の朝は終わらず、問いだけが残った——
私たちは何を失ってまで、安全を得ようとしたのか。
誰がそれを許したのか。
そしてもし明日も影が来たら、私たちはどう生き延びるのか。




