水神様
たとえばコップに注がれた水が目に入ったとき。
お風呂場でお湯に目を落としたとき。
そして雨が降ってきたとき。
そんな日常で水を見かけるとき、私はふと気が付くと彼のことを思い出していることがある。
袖が触れ合った程度の縁ではあるが、それでも私は時折思い出すのだ。
いまどうしているのだろう? まだ「彼女」から逃げているのだろうか? それとも、もう……。
雨粒がこつこつと窓を叩く音が静かな部屋の中に響いている。そのリズムを聞きながら、彼の話を思い出していた。
たしかあれは、同期の同僚たちと初めて行った飲み会でのことだった。ほどよく酔いも回り、顔にも赤みが増しているにも関わらず頑なに水を飲もうとしない彼に誰かが理由を尋ねたのだ。
「僕は水が怖いんだ」
きっと酒の勢いだったのだろう。私の向かいに座る彼はその理由を話し始めた。
僕が子供の頃に住んでいた小さな町には、水神様の住むと言われる綺麗な川があった。
村と森の間を流れる大きな川で、近場に遊び場もないような田舎町のことである。夏には泳ぎに釣りにと子供たちの遊び場として賑わうような川だった。
だけどこの川には一つのルールがあった。と言っても難しいものではない。とても簡単なものだ。
それは「子どもたちだけで川に来てはいけない」というものだった。
町のお爺さんお婆さん、それに親たちも、大人たちはみながみな口を揃えて言っていた。
「水神様は子どもが好きなんだ。子どもだけで遊んでいると現れて一緒に遊んでくれるけど、やがて子どもを連れ去ってしまうんだ。だから子どもたちだけで水神様の川へと行ってはいけない。もし仮に水神様に出会ったら、すぐに逃げるんだ」
僕を含めて少し大きくなり分別がつくようになった子どもたちはみなその言葉をこのように解釈していた。
子どもたちに大人気の遊び場である一見穏やかな川には、多くの危険が紛れているのだと。
少し頭を使って考えてみれば分かることではあったのだけど、もしそういった危険を水神様に置き換えて子どもたちへの警告としていたなら、すべての川に水神様はいると言えば良かったのだ。わざわざあの川だけを「水神様の川」と呼ぶ必要なんてなかったはずなのだ。
そんなことにも気が付かない、自分を賢いと思い込んでいるだけでバカな中学生だった僕は、あの日一人で川のそばを歩いていた。
セミの鳴き声がうるさく感じるような午後だった。
日の光を反射して宝石のようにきらきらと流れる水はひどく気持ちよさそうで、家族旅行だ夏休みの宿題だなんだと付き合いの悪い友達よりもはるかに僕に対して親しみを持っているように見えた。
「遊ぶのは良いが、水神様の川だけはダメだからな」
家を出るときに父が言っていた言葉を思い出す。
まだ僕のことを子供だと思っているのだ。それも面白くなかった。
夏の暑さ、付き合いの悪い友達への苛立ち、親へのちょっとした反抗心、そして僕を誘うように輝く水面。
それらが僕にその判断をさせた。
川のそばに靴を揃え置いておいて素足で水へと入る。
ぬるりとした岩、水が弱く足を押す感覚、少し遠くに見える木々は緑の葉から木漏れ日を落とし、夏の日差しが肌を快く焼いた。足元では小さな魚がちらちらと姿を覗かせていた。
それらすべてがとても心地よく、僕は知らず知らずの内に水神様の川を奥へ奥へ、もっと深く、もっと川上へと進んでいた。
どれくらいそうして進んだだろうか。
ふと気が付くと僕の近くに一人の子どもが立っていた。年は当時の僕より少し下くらいだろうか。おかっぱ頭のかわいらしい女の子だった。
いままで何度もこの川に遊びに来たことがあったが、一度も見たことのない子だった。
「きみは?」と聞くと、その女の子は澄んだ川音のような声で答えた。
「みなかみ」
やはり聞いたこともない名前である。だが田舎町であるとはいえ住民が全員お互いの顔と名前を知っているほど狭いわけでもない。知らない子がいたとしてもそこまでおかしな話ではないだろう。
そう考えた僕はその子、みなかみと遊ぶことにした。
一緒に遊ぼうと言ったときの彼女の顔は、とても、とても嬉しそうなものだった。
……少し考えれば分かることだ。でもバカな子どもである僕は気が付けなかった。
だから彼女は悪くない。悪いのは僕だ。気が付くだけの頭もないのに言いつけを守ることすら出来ない僕だけが悪かったのだ。
みなかみ。水面の神。つまり水神。
彼女と水をかけ合い、泳ぎ、魚を追いかけ……遊んでいる内に僕は気が付けば水の中にいた。そう気が付いた瞬間に口の中に水が溢れる。息が苦しい。肺が痛む。頭がガンガンとしてきて、意識が朦朧とする。
そんな苦しみの中で、彼女は楽しそうに笑っていた。きっと彼女にとってはそれも遊びだったのだろう。
そこからどうやって助かったのかは覚えていない。
気が付くと病院のベッドで寝ていて、一人で水神様の川で遊んだことを両親にひどく叱られ、無事を喜ばれた。
だけどそれ以来僕は水に近付くことができなくなってしまった。
水に顔を近づけると、彼女のあの涼やかな声でこう聞こえるのだ。
「遊ぼう、遊ぼう、遊ぼう」
だから今でも水を飲むのも怖いんだ、今度彼女と「遊んだ」ら、きっと溺れて死んでしまうような気がするから。
彼の語りが終わったとき、私たちの席はしんと静まり返っていた。淡々と、だけど実感の籠ったその語りにみな圧倒されてしまっていたのだ。
だが居酒屋の喧騒に押されたのか、それともそれも酒の勢いか。誰かがへらへらと笑いながらコップになみなみと注がれた水を彼に向けて差し出した。
すると……。
「やめてくれ!」
彼は大きな声でそう叫び、腕を振ってそのコップを叩き落とした。
「あ……」
また私たちの席に静寂が戻る。彼は恥じるように顔を伏せ、もう帰ると言って札入れから何枚かお札を取り出して自分の席に置いてそそくさと逃げるように立ち去ってしまった。
残された者たちはみな一様にポカンとしていたが、やがて彼のあの態度や話を肴にして場がまた盛り上がり始める。だが私はその話に参加する気にはなれなかった。
見てしまったのだ。彼がコップを叩き落とし、そして中の水が飛び出したその瞬間。
私と彼の間を薄い膜のように水が遮ったその瞬間。
彼の背中に、まるでおんぶをされるかのように、おかっぱ頭の女の子がべったりと張り付いているのを。
『遊ぼうよ、ねえ、遊ぼう。遊ぼう、遊ぼう、遊ぼう……』
そんな声が、聞こえたような気がした。
その後ほどなくして彼は会社を辞めてしまった。それ以来、どこでなにをしているのかはまるで分からない。
先ほどまで静かだった雨が、気が付けばざあざあと屋根を叩いている。
物思いから覚めた私は耳障りなその音を追い出そうとテレビを付けた。そろそろ晩御飯の準備をしなければ。
『……の自宅内で、一人暮らしをしていた会社員の男性が不審死しているのが発見されました……』
ちらりと目を向けたテレビの画面に映った、先ほどまで思い出していた彼の顔を見て私は思わず動きを止める。
不審死? 自宅で?
いったいなぜ?
そんな疑問に答えるようにニュースキャスターは言葉を続ける。
『詳しい死因はまだ分かっていませんが、男性は極度の脱水状態であったらしいとの情報も……』
テレビの画面からこぼれる明かりだけが部屋を照らす中で私は考える。
脱水状態。彼は水を避けたのだろう。水だけではない。あらゆる液体を。
避けて、避けて、避けて……。
そしてきっと彼は「彼女」から逃げることができたのだろう。
『ああ、私のだったのに。なんで、なんで。あんなに遊んだのに』
川のせせらぎのような声が、雨音に混ざり遠くから聞こえたような気がした。